希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

永嶋大典『蘭和・英和辞書発達史』(1970)の魅力

学生たちとの自主学習会で,豊田實の名著『日本英学史の研究』(岩波書店,1939,千城書房の新訂版1963)を読むことは前回述べました。

第1回目は,第1部「語学」の第1章「英和及び和英辞書の発達(明治二十一年まで)」です。

昨日,改めて読み直してみました。
面白い!

幕末以降の日本の先人たちは英語とどう格闘してきたか。
その足跡が,「辞書」の発達という形で活写されています。

それと同時に,やはり70年以上前の本。
その後のめざましい辞書研究の成果で,かなり補わなければなりません。

その際に,まっ先に読むべきは,永嶋大典『蘭和・英和辞書発達史』講談社,1970;ゆまに書房の復刻版〔再版〕1996)です。

永嶋は『日本英学史の研究』の辞書史の限界を,次のように指摘しています。

「外面的,書誌学的観点に立脚しているので,蘭和辞書研究における場合と同じように,各辞書の内的関係を明らかにし,文化史的位置づけを試みるという有機的な『歴史』とはなっていない。」(5頁)

その具体例として,永嶋は柴田・子安の名著『英和字彙』の初版(1873)と再版(1882)におけるphilosophyの訳語を比較しています。

初版では,philosophyは「理学,理論,理科」,natural philosophyは「窮理学,博物理学」となっています。

これに対して再版では,philosophyは「哲学,理学」となり,natural philosophyは「物理学」となっています。また,Divine philosophy「神理学」, Dogmatic philosophy「独断哲学」などの多くの関連語を挙げています。

豊田はこれらを評して,「Philosophyに対するこの訳語の精疎変遷には維新当時から明治十年代にかけての日本における文化的学問の動きの,少なくとも,一面を反映するものとしての興味も繋がるであらう」(岩波版71頁)と述べています。

これに対して永嶋は,「一見もっともな評言である」としながらも,増補の背後に井上哲次郎編『哲学字彙』(初版1881)が介在していたことを明らかにしています。

『哲学字彙』は,東京大学の井上らが西洋の学術語の定訳を目指して執筆し,日本の論理的抽象語を定める上で画期的な位置を占めた文献です。

同書では,philosophyは「哲学」,natural philosophyは「物理学」などとなっており,翌年に出た『英和字彙』改訂版への影響は歴然としています。

こうして,永嶋は「本書の立場」を以下のように明らかにしています。

「本書は,従来の外面的,書誌学的研究成果に立脚してその不備を補いつつ,各辞書の訳語,訳文に独自の視点を置いて,蘭和辞書および英和辞書の内的,有機的発展をあとづけようとするものである。訳語,訳文に視点を置く本書は,Philologyの立場に立脚するものといえよう。」

なお,永嶋はPhilologyを「従来の『文献学』よりももっと広い領域,自由な研究方法を包含しうるものとして,『言語文化研究』という名称を提案したい」(8頁)と述べています。

ちなみに,永嶋が勤務していた大阪大学は,教養部の外国語部門を「言語文化部」に,そして「大学院言語文化研究科」に改組しました。

なお,「序論」の最後にある永嶋の歴史観にも興味がそそられます。
吟味すべき言葉でしょう。

「あるテーマについて,入手しうる限りの資料,事実を年代順に配列したのみでは『歴史』とはならない。『歴史』とは事実の年代的羅列ではなく,統合的史観による事実の選択とその意味づけである。といって,これは,史料の独断的,恣意的裁断を是認するものではない。統合的史観とは,はじめから所与のものとして存在しているのではなく,史料の凝視の中から出てくるものであり,主体(歴史家)と史料との主客合一的交渉から生まれてくるものである。」(9頁)

この「統合的史観」については,いささか曖昧ですが,これらも学生たちと大いに議論したいところです。

なお,永嶋のあとにも日本における英語辞書発達史研究は大きく前進します。

この続きも書きたいところですが,明日31日の午後は,大阪府弥生文化博物館で小中の先生たちを相手に講演をする約束なので,続きはまた時間ができたらということで。