希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(2)

慶應義塾と共立学舎

福沢諭吉慶應義塾は、幕末・明治前期における英学のメッカであり、英語教師の最大の供給源だった。

その慶應義塾と和歌山との関係は深い。
すでに慶応3年(1867)には、和歌山藩が渡米する福沢諭吉に藩金を託し、英書の購入を依頼している。

福沢諭吉とともに緒方洪庵が主宰する大阪の適塾で学んだ山口良蔵は、紀州藩の藩校で洋学などを教えると同時に、福沢の依頼を受けて藩内の多くの若者を慶應義塾に送り出した。

福沢の『慶應義塾紀事』によれば、文久3年(1863)から明治15年(1882)までに慶應義塾に入学した和歌山人は178人であった。

この人数は地元の武蔵を除くと地域別では最高で、和歌山藩は中津藩、長岡藩とともに「慶応義塾の3藩」と呼ばれた。
それほどまでに紀州和歌山の英学修業熱は高かったのである。

そのため、江戸築地鉄砲州の慶応義塾では「紀州塾」を増築し、あふれる紀州出身者を収容した(図)。

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こうして、のちに慶應義塾の運営を担った鎌田栄吉・小泉信吉・小杉恒太郎・森下岩楠・和田義郎、政財界の児玉仲児・塩路彦右衛門、吉川泰次郎、教育界・学界の菅沼政経・松山棟庵・松島剛・三宅米吉・村井信晴などの優れた人材が輩出された。

明治2年には、松山棟庵(写真↓)らが福沢諭吉紀州藩の英学校に招聘する計画を立てている。

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その計画は頓挫したものの、新たな英学校である「共立学舎」を設立するために、同年10月には慶應義塾風の学則『共立学舎新議』が書かれている。

こうして、共立学舎は明治3年5・6月ごろに城外の三木町に開設された。

同校は福沢の助言により藩の資金と民間の運営による「共立」とされたが、開設直後の8月には城内の二之丸に移転され「藩立洋学所」とも呼ばれた。

これを仮に「新洋学所」とするならば、明治2年4月以降から明治3年7月まで存在した藩校学習館の洋学寮は「旧洋学所」となり、別組織である。

明治3年8月には共立学舎にイギリス人のサンドルス(F. H. Sanders)が雇われ、英語・ドイツ語・法律学を教えた。

日本人英語教師には通訳兼任の山内提雲、初級英文法などを教えた松山棟庵と吉川泰次郎がおり、生徒には塩路彦右衛門・菅沼政経らがいた。

教授方式は慶應義塾式の講訳・会読・素読で、学習内容は「初めまず西洋の『いろは』を覚へ、次て文法書、地理書、究理書、舎蜜書〔化学〕及歴史等を読なり」(『共立学舎新議』)とある。

鎌田栄吉(写真↓)の回想によれば、教科書は「理学初歩、地理初歩というような英書でした。
それからその次にピネオの英文典をやりました。(中略)それからカッケンボスの物理書やカッケンボスの米国史をやり、マルカムの英国史、パーカーの物理書、セニヲルの経済説略等をやるという風に稍々面白くなって来ました」(『鎌田栄吉全集』第1巻)というが、そのすべてを短命だった共立学舎で教えたかについては疑問も残る。

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藩内が派閥抗争などで混乱するなか、共立学舎の英語教師らは半年ほどで和歌山を離れ、明治4年1月末ごろには事実上の廃校状態になったと思われるからである(多田健次『日本近代学校成立史の研究』)。

いずれにせよ、明治4年7月の廃藩置県で洋学所(共立学舎)は廃止され、翌5年に「和歌山県学」に引き継がれた。
そこでの英語教師は慶應義塾出身の吉田政之丞、村井信晴らである。

なお、明治4年の初頭には宣教師であり大学南校(東京大学の前身)の御雇教師だったタムソン(David Thompson 1836~1915)が紀州藩に招聘され、津田出らに西洋事情や英米憲法などを講義している。

宣教師の紀州入り第1号である。新宮藩主である水野忠幹の弟の石夫は明治4年慶応義塾で英学を修業し、タムソンから受洗した。

一方、紀伊田辺藩では明治2年9月に藩主の安藤直裕が藩校の修道館を拡張し、皇学・漢学・武術・洋学の各教場を分設した。洋学(内容は英学)科では次のような教科書が使用された。

 《下級》『単語篇』(開成所の『英吉利単語篇』か)『第一読本』『智環啓蒙』『第二読本』『地学初歩』『開成所刊行英文典』『理学初歩』『万国歴史』『コルネル氏第二地理志』

 《中級》『第三読本』『クワッケンボス氏英文典』『同氏理学書』『コルネル氏第三地理志』

 《上級》『ビール氏英国史』『クワッケンボス氏連邦志』『ウード氏動物学』『スカーリ氏兵学書』『ストーン氏英律』

もちろん、これらのすべてが教えられたとは限らないが、中級・上級になると各分野にわたる相当高度な英書が指定されていたことがわかる。

授業では文章の読み方や意味の解釈を教え、学力が進むと1ヶ月に6回ほど会読、輪講、作文などを課した。

修道館で英学を教授したのは鳥山啓(為助、1837~1914)である(写真↓)。

のちに「軍艦マーチ」の作詞者として知られる鳥山は、慶応2年に藩の外国船応接係を命じられ、廃藩置県で修道館が廃止された明治4年の末には神戸の英国領事館に勤務して英語力を磨いた。

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鳥山は、学制公布直後の明治5年の11月には田辺小学校の教師となり、近代的な教育制度の定着に尽力した。

明治8年には田辺伝習所予科教員、翌9年には和歌山師範学校教員兼勧業係となり、明治12年には和歌山中学教員を兼務して博物学などを教え、南方熊楠に大きな影響を及ぼした。

明治20年には東京に出て華族女学校の教授となっている。

鳥山は和歌,国学、地理、天文学等に精通し、西洋の学問を日本に定着させるべく、英語力を駆使して啓蒙的な著書・訳書を数多く刊行した。

明治6年だけを見ても、米国のSargent’s Readerを抄訳した教訓童話『さあぜんとものがたり』、Cornellの原著を訳した『天然地理学』をはじめ、『窮理早合点』『西洋雑誌初集』『変異弁』『童蒙窮理問答』を矢継ぎ早に世に出している。

また、小学校用教科書として『初學入門』『紀伊国地誌略』を編修し、明治10年和歌山県学務課から刊行した。

(つづく)