こうして、のちに慶應義塾の運営を担った鎌田栄吉・小泉信吉・小杉恒太郎・森下岩楠・和田義郎、政財界の児玉仲児・塩路彦右衛門、吉川泰次郎、教育界・学界の菅沼政経・松山棟庵・松島剛・三宅米吉・村井信晴などの優れた人材が輩出された。
こうして、共立学舎は明治3年5・6月ごろに城外の三木町に開設された。
同校は福沢の助言により藩の資金と民間の運営による「共立」とされたが、開設直後の8月には城内の二之丸に移転され「藩立洋学所」とも呼ばれた。
これを仮に「新洋学所」とするならば、明治2年4月以降から明治3年7月まで存在した藩校学習館の洋学寮は「旧洋学所」となり、別組織である。
明治3年8月には共立学舎にイギリス人のサンドルス(F. H. Sanders)が雇われ、英語・ドイツ語・法律学を教えた。
日本人英語教師には通訳兼任の山内提雲、初級英文法などを教えた松山棟庵と吉川泰次郎がおり、生徒には塩路彦右衛門・菅沼政経らがいた。
鎌田栄吉(写真↓)の回想によれば、教科書は「理学初歩、地理初歩というような英書でした。
それからその次にピネオの英文典をやりました。(中略)それからカッケンボスの物理書やカッケンボスの米国史をやり、マルカムの英国史、パーカーの物理書、セニヲルの経済説略等をやるという風に稍々面白くなって来ました」(『鎌田栄吉全集』第1巻)というが、そのすべてを短命だった共立学舎で教えたかについては疑問も残る。
それからその次にピネオの英文典をやりました。(中略)それからカッケンボスの物理書やカッケンボスの米国史をやり、マルカムの英国史、パーカーの物理書、セニヲルの経済説略等をやるという風に稍々面白くなって来ました」(『鎌田栄吉全集』第1巻)というが、そのすべてを短命だった共立学舎で教えたかについては疑問も残る。
なお、明治4年の初頭には宣教師であり大学南校(東京大学の前身)の御雇教師だったタムソン(David Thompson 1836~1915)が紀州藩に招聘され、津田出らに西洋事情や英米憲法などを講義している。
《下級》『単語篇』(開成所の『英吉利単語篇』か)『第一読本』『智環啓蒙』『第二読本』『地学初歩』『開成所刊行英文典』『理学初歩』『万国歴史』『コルネル氏第二地理志』
《中級》『第三読本』『クワッケンボス氏英文典』『同氏理学書』『コルネル氏第三地理志』
もちろん、これらのすべてが教えられたとは限らないが、中級・上級になると各分野にわたる相当高度な英書が指定されていたことがわかる。
授業では文章の読み方や意味の解釈を教え、学力が進むと1ヶ月に6回ほど会読、輪講、作文などを課した。
修道館で英学を教授したのは鳥山啓(為助、1837~1914)である(写真↓)。
鳥山は、学制公布直後の明治5年の11月には田辺小学校の教師となり、近代的な教育制度の定着に尽力した。
明治6年だけを見ても、米国のSargent’s Readerを抄訳した教訓童話『さあぜんとものがたり』、Cornellの原著を訳した『天然地理学』をはじめ、『窮理早合点』『西洋雑誌初集』『変異弁』『童蒙窮理問答』を矢継ぎ早に世に出している。
(つづく)