希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(12)

敗戦と「墨ぬり」英語教科書

1945(昭和20)年の敗戦によってGHQ(連合国最高司令官総司令部)による占領・管理が始まると、英語が敵国語と見なされていた戦時体制中の状況から一転して、空前の英語ブームが起こった。

1945(昭和20)年9月には簡便な日常英会話を集録した『日米会話手帳』が発行され、360万部を超す大ベストセラーとなった。

類似の簡略な英会話本も先を争うように刊行され、子ども用の絵本にまで、英会話やアメリカ兵を素材としたものが登場した。

翌1946(昭和21)年2月にはNHK(日本放送協会)のラジオ放送で平川唯一の「カムカム英語」が始まって人気番組となり、英会話熱が全国的に広がった。

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学校教育でも英語が重視されるようになった。

和歌山県では、1945(昭和20)年10月30日付の「中学校高等女学校学徒勤労動員解除に伴ふ学力補充に関する件」の中で、戦後の事態に即応するため外国語について「可成(なるべく)必須として之(これ)を課し、特に日常須要なる実用会話等を課し、之か習熟に力(つと)むること」を通知している。

外国語の実用会話を「日常須要」としていた点に、当時の雰囲気がよく表れている。

敗戦から間もない時期には、教育に対する需要はあっても、教材となる教科書がなかった。

やむをえず、太平洋戦争末期の1944(昭和19)年から刊行された準国定教科書『英語』(中学校用3巻・高等女学校用3巻:ただし、実際に使われたのは各2巻まで)を使い、教材の軍国主義的な部分に「墨ぬり」などの削除を行って授業を実施した学校も多かった。

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英語教材の削除に関しては文部省などからの統一的な指令はなく、教員の判断と裁量で行われた。
(→磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」和歌山大学教育学部紀要・人文科学』第56号、2006年)。

現存する「墨ぬり」英語教科書は全国的にも極めて珍しいが、私の調査では、和歌山県では2冊が確認されている。

下の写真は、県立海南中学校(現・海南高等学校)で使用された2年生用の『英語二』の第1課 The New School Year (新学期)で、銃後の覚悟や軍事教練が描かれている。

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左側の「墨ぬり」の箇所には、次のような英文が記されていた。
“Our principal told us that we should think of our soldiers and sailors at the front and do our best.”(校長先生は、戦場にいる陸海軍兵士のことを思い、全力を尽くすよう訓示されました。)

1946(昭和21)年度には、粗末な新聞用紙に印刷された折りたたみ式の「暫定教科書」(「パンフレット教科書」「折りたたみ教科書」とも呼ばれた)が分冊で配布された。

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物資難で全員には行き渡らず、抽選にもれた生徒は悔し泣きしながら筆写したり、教員がガリ版刷りで作成したプリントを使用したという。

外見はみすぼらしかったが、暫定教科書には戦後教育の新しい理念が盛り込まれていた。
文部省教科書局長だった有光次郎は次のように述べている。

「この教科書は外形は粗末ではあるが、新しい教育の方向に添って軍国主義や極端な国家主義或は国家神道などの教材を除き、人間性を尊重し民主主義的国家の建設、国際親善に寄与し得るやうな国民の育成を目ざして編纂されている。」(「新教科書について」『朝日新聞』1946年4月8日)

暫定版『英語3』の英作文教材を例に見ると、戦時版にあった「お友達と一しょに靖国神社に参拝しました」が「・・・上野公園に行きました」に変更されている。
GHQの神道禁止令を受けてのことであろう。

翌1947(昭和22)年度には新制中学校が発足した。
選択科目ながら、すべての中学生に外国語を学習する機会が徐々に保障されるようになり、1960年代には事実上の必修化に至った。

最初の教科書として、文部省はLet’s Learn English (全3巻)を発行した。
表紙には若い男女が一緒に歩く様子が描かれており、男女共学時代の到来を象徴していた。

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しかし、入学者の学力不足は深刻だった。
新制中学校発足時の2、3年生には国民学校高等科1、2年修了者を受け入れたが、英語を学んだことのある生徒はほとんどいなかった。
英語を課した国民学校が少なかった上に、勤労動員を余儀なくされていたからである。

そのため和歌山県教育民生部長は、中学2、3年の生徒で「国民学校高等科において英語を課せなかった向にあっては第7学年〔中学1年〕に準じ実施する」と中学校長らに通達した(1947年5月17日付「教科書参考書に関すること」)

しかし、こうした混乱も徐々に収まり、1949(昭和24)年度からは民間の検定教科書が使用され、アメリカの生活を盛り込んだJack and Bettyが一世を風靡することとなった。

つづく