希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「授業は英語で」の重圧感(高校教員から)

2013年4月から実施された高校の学習指導要領では、英語の「授業は英語で行うことを基本とする」という方針が盛り込まれました。

これが、多くの高校の先生たちを苦しめています。

あろうことか、2013年6月に安倍内閣閣議決定した「第2期教育振興基本計画」には、以下の危険な方針が盛り込まれています。

「小学校における英語教育実施学年の早期化,指導時間増,教科化,指導体制の在り方等や,中学校における英語による英語授業の実施について,検討を開始し,逐次必要な見直しを行う。」

高校での検証もなされていない段階で、「中学校における英語による英語授業の実施」を検討するというのです。

この「授業は英語で」を学習指導要領に盛り込むことがどれほど理論的・実践的に誤りであるかは、以下の文献などが明らかにしています。

寺島隆吉『英語教育が亡びるとき:「英語で授業」のイデオロギー』」明石書店、2009
江利川春雄『英語教育のポリティクス:競争から協同へ』三友社出版、2009
大津由紀雄ほか『英語教育、迫り来る破綻』ひつじ書房、20013
成田一『日本人に相応しい英語教育:文科行政に振り回されず生徒に責任を持とう』松柏社、2013

また、本ブログでも繰り返し批判してきました。

「授業は英語で行う」への異論
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/538454.html

「授業は英語で」の危険性を指摘する文献
高校の「授業は英語で行うことを基本とする」の問題性
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/29304480.html


「授業は英語で」の誤りに対する毛利可信教授の見解
http://blogs.yahoo.co.jp/gibson_erich_man/31869959.html

さて、このたび高校の英語教員より、「授業は英語で」がどれほど学校現場を苦しめているかに関するメールをいただきました。

本人の了解を得て、その一部を原文のまま紹介します。
〔  〕内は私の補足です。

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幸い私の勤務校は〔英語で授業の〕「研究指定校」になっておりません。
「指定校」以外は
(1)「英語で授業」に熱心な教員がいればその学年は率先してやっている。
(2)「英語で授業」を一応「頑張る」けれど3年生になったら日本語に切り替える
(3)県教委が来た時や、他校が見に来る研究授業の時だけなんとなく英語でやる

という学校が多いとは思います。私などは(3)に近いですが……。

でも共通しているのは「英語でやらなくては」という脅迫観念です。
日本語でやっていてなぜ後ろめたい思いをしなければいけないのか……。
研究指定校は本当に大変だと思います。

ある研究指定校(偏差値では50いくかいかないかの中堅校。生徒はおとなしい)
での研究授業を3年ほど前に見せてもらいましたが
「全員同じ基準でオールイングリッシュ授業ができるように」と
handoutも共通、授業のprocedureも共通、
でもそのprocedureを見た時、「私はこの学校に転勤したくない」と思いました。

「全員共通でやりましょうね」ということは、
スタッフの誰かが必ずどこかで妥協しなくてはいけません。
ベテランも新人も、常勤も講師も、みんなが同じように
最大公約数的な教案をもとにやっています。

「一度型ができてしまえば楽です」とは言っていましたが
「型ができる」ということはマンネリに陥る危険性もあり
教員が個性を活かした授業の料理が全くできなくなってしまいます。

生徒も「次はこの活動がくる」とわかりきっているので
英語の指示がわかっているからというより
条件反射的に教員の指示にはこたえますが
肝心の「活動」のほうは、「どうなんだろう?」と思えるものでした。

せっかくの教科書の本文を「7割の理解」で終わっていいのか?
儀式のように、1回だけの通りいっぺんのコーラスリーディングで終わらせていいのか?
英問英答をしたり、英英辞典の定義を与えていれば「英語で授業」なのか?
などなど、気になる点がたくさんありました。

私自身は、自分なりに授業改善は努力してきたつもりですし
ある一定の形はできつつあったと思っているし、成果もあったと思っています。

だから今の文科省や県教委からの一方的な価値観と方法論の押しつけ(だと私は思っています)は本当に息苦しくて、
でも「英語で授業をしない自分はやっぱり努力をしていないのか?」と
思い悩んだりして、実はこの数年間、本当に「ぶれて」いました。

先生方のご著書〔『英語教育、迫り来る破綻』、『日本人に相応しい英語教育:文科行政に振り回されず生徒に責任を持とう』〕を拝見し
「ぶれる必要なんかなかったんだ。本当に自分が生徒に責任がもてる授業をしよう」と
心に決めています。

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1976年の旭川学力テスト訴訟をめぐる最高裁判例からみても、学習指導要領は教育課程の大綱的な基準にすぎず、教員の使用言語まで定めることは違法です。

目の前の生徒の学びを高めるためにどのような言語を用いて、どう指導をするかは、教員の裁量権に属するものです。
行政が干渉すべきものではありません。

そうした確信の下に、ぶれることなく、「本当に自分が生徒に責任がもてる授業」をしましょう。