希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

学習指導要領の「授業は英語で」は何が問題か(全文)

政府・文部科学省は、高校に続いて中学校でも英語の「授業は英語で行うことを基本とする」との方針を次期学習指導要領(2016年)に盛り込もうとしている。

個々の先生が授業を英語で行うかどうかは裁量権の範囲であり、基本的に自由であろう。

しかし、政府が上から学習指導要領で「授業は英語で」を制度化することは、きわめて危険である。

学問的に確固たる裏付けもなければ、検証もないからである。

学習指導要領によって高校に「授業は英語で」が導入されたのは2013年度の1年生からであり、まだ3年生までの完成年度に達していない。

なぜ、このような無謀な方針を急ぐのか。
なぜ、教員の手足を縛ることばかりするのか。

以下の論考は、大修館『英語教育』2014年9月号に寄稿した共著論文をもとに、江利川が加筆修正したものである。

学習指導要領の「授業は英語で」は何が問題か

江利川春雄 Erikawa Haruo(和歌山大学教授)
久保田竜子 Kubota Ryuko(カナダ・ブリティッシュコロンビア大学教授)

はじめに

文部科学省は高校学習指導要領に「授業は英語で行うことを基本とする」との方針を盛り込み、2013年4月から実施した。

その検証もないまま、翌5月には安倍首相の私的諮問機関である教育再生実行会議が、突如「中学校における英語による英語授業の実施」の検討を提言した。

この方針は、1カ月前の中教審教育振興基本計画部会の答申には盛り込まれていなかった。

にもかかわらず、安倍内閣教育再生実行会議の方針を「第2期教育振興基本計画」に盛り込み、同年6月に閣議決定してしまった。

「授業は英語で」の方針は、高校・中学のいずれも中央教育審議会での専門家の議論を経ていない。
小学校英語の早期化・教科化と同様、一部の政治家や役人らが持ち込んだようだ。

もちろん、英語を使う必然性と効果のある指導場面では英語を駆使すべきであり、教師による一方的な解説を日本語で延々続ける授業は改善が必要であろう。

だが、授業を英語で行えば学習効果が高いという理論的・実証的根拠はない(後述)。
それゆえ私たちは、学習指導要領で「授業は英語で」を制度化することに反対してきた(江利川,2009, 2014、久保田,2014)。
また、この問題については寺島(2009)、亘理(2011)などの優れた研究がある。

他方、たとえば佐藤臨太郎氏のように「時代は『授業は英語で』を目指すべきである」といった指導要領に沿う主張もある(『英語教育』2014年6月号)。

佐藤氏の主張は、江利川のブログ記事「『授業は英語で』は時代遅れ」(「希望の英語教育へ」2014年1月26日)を批判する形で展開された。

しかし、同ブログ記事は、久保田竜子の「世界の専門家が推奨する指導方法は、母語能力を最大限活用した効率的、創造的な言語活動であり、『英語は英語で』式の指導方法はガラパゴス的発想だ」とする主張(久保田, 2014)を紹介するものだった。


そのため、佐藤氏の実質的な批判対象である久保田と江利川の連名で反論し、「授業は英語で」の問題点を考察したい。

柔軟な授業運営を阻害

学習指導要領の規定は「授業は英語で行うことを基本とする」であり、文法指導などで日本語も部分的に許容する。
しかし、文科省の「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(2013年12月)では「基本とする」が消えて「授業を英語で行う」とされ、日本語排除の「英語漬け論」への転換が示唆されている。

実際、すでに一部の行政では「英語のみ」による授業を迫る動きが起こっており、そうした強要を告発する手記が江利川に届けられた(「高校英語教師の手紙」としてブログ「希望の英語教育へ」に5回連載:2014年3月1日~31日)。


その教員は、アルファベットも十分に書けない生徒たちに寄り添い、半年後には英語学習を楽しむ生徒が出るまでになった。

だが、指導主事からは「オールイングリッシュの授業ではない」と否定された。
手紙はこう問いかける。
「良い授業かどうかを決める基準が、生徒の反応や様子よりも、行政の方針に合っているかどうかになることが、果たして生徒のためになると本当に思いますか?」

他方、進学校では大学入試で問われる英文和訳や英作文に対応するために、日英比較と高度な日本語力の鍛錬も必要となる。

英語と日本語をどう使い分けるかは,指導内容や生徒の特性などによって慎重に見極める必要がある。
国が指導要領で「授業は英語で」と定めることは、教師の裁量範囲を狭め、実情に応じた柔軟な授業運営を阻害し、「英語で教えないからダメ教師」という不当なレッテル貼りを誘発しかねない。

まるで、厚生労働省が特定の新薬を使うよう全国の医師に通達するような愚行であろう。

英語嫌いを増やす危険性

「授業は英語で」の方針は、大学入試へのTOEFL導入案などとともに、「グローバル人材育成」という成績上位層に特化した教育政策の一環として出された。

「結果の平等主義から脱却し、トップを伸ばす戦略的人材育成」を掲げた教育再生実行本部の提言(2013年4月)によれば、育成すべきグローバル人材とは「年10万人」である。

これは高校卒業者の約1割にすぎず、残り9割は視野にない。文科省の「実施計画」にも、英語が苦手な生徒への方策が一言も書かれていない。

しかし現実には、英語が「好き」な中学生は25.5%で、9教科中で最下位水準である(ベネッセ2009年調査)。
英語の授業が「70%以上わかっている」高校生も4割以下だ(同2006年調査)。
英語が苦手な生徒に英語で授業を行えば、「わからない」「嫌い」が加速しかねない。

佐藤氏は、ほぼ英語で授業を行った結果、「英語を話したい気持ち」が有意に上昇したと述べている。
しかし、被験者は国立大などの大学生であり、多様な高校生には一般化できない。
しかも、読み書き領域での効果は検証されていない。

「授業は英語で」はなぜ「時代遅れ」か

指導において、選択的、効果的に母語を使用することが世界的潮流である点には佐藤氏も同意している。
なぜ「授業は英語で」の方針が「時代遅れ」なのか、3点を挙げたい。

第一は実証的根拠である。
目標言語での指導が言語能力に結びつくかについて、韓国で行われた小学6年生対象の語彙習得に関する研究がある。
これによると、英語だけの指導より母語とのコードスイッチングを取り入れた指導法の方が効果的だった(Lee & Macaro, 2013)。

また、アンケート調査によると学習者は英語のみの授業に消極的な態度を示す傾向があった(Macaro & Lee, 2012)。

他の研究では、学習者の母語が認知的ツールとして用いられること、また、コードスイッチングが様々な機能を持ち、極めて自然な言語使用であることも検証されている。

30年以上前に提唱されたKrashenのインプット理論は様々な批判を浴びてきた。
この指導法が日本の学校で英語習得に結びつくかは実証されていない。

実際、目標言語を使用する頻度は教師より学習者の方が低く、学習者同士の会話ではさらに低くなるという海外の研究結果を鑑みると(Levine, 2014)、教師が多く英語を使い、生徒の能力にかかわらず英語を強いることは、生徒参加型の試みを萎縮させ、一方的な教え込みが英語で行われることになりかねない。

さらに、発達障害をもつ生徒の場合、英語のみ聞かせる指導は不適切で、母語も駆使した明示的で多感覚的な指導が不可欠となる。

第二は言語能力に関する理論的根拠である。
「授業は英語で」の根底には、母語を排除した英語漬けが習得に結びつくというモノリンガル主義がある。

しかし海外の研究では複言語主義やホリスティックな言語観が主流であり、言語知識やスキルは、英語、日本語といった別々の完結したシステムの具現化でなく、総合的言語能力から場面に応じて部分的に引き出すレパートリーと見なされている。

これに基づいた指導法では、目標言語に限りなく触れさせるのではなく、母語や他の言語の知識を総動員して、総合的言語能力と個々の言語能力を高めることが強調されている。

バイリンガル教育においても、従来のように二言語を峻別して教えたり、英和・和英辞書などの使用や翻訳を避けたりするのではなく、両言語を駆使して言語・認知能力を高める方法が提唱されている(Cummins, 2007)。

例として、意味確認目的だけでなく有効なコミュニケーション手段としての翻訳や、コードスイッチングを通じたメタ言語知識の育成などがある。

二言語による積極的な意味の理解と表出に重点を置くことは、意思疎通のための国語力・英語力育成に繋がると同時に、異文化間理解・言語意識を伸張させるのである(Cook, 2010)。

最後に理念的議論である。
「授業は英語で」の議論は方法論に固執しており、そもそも学校教育で英語を学習することはどんな意味があるのか、何をめざすべきなのか、という目的論が欠如している。

道具主義的な言語教育を超えて人間教育としての英語教育を考えると、「授業は英語で」教えることに伴うイデオロギーも問わなければならない。

例えば前述のホリスティックな複言語主義的言語観は、ネイティブを目標とする「完全な言語能力」を前提としない。
また、国際語として英語を使う相手はネイティブだけではない。

ところが、文科省の学習指導要領解説では「ネイティブ・スピーカーの発音」を聞いて「発音を模倣」したり、ネイティブと「できるだけ多く触れ合う機会」を設けたりすることが推奨されている。

この「ネイティブ」とはだれなのか。
中学校の現行教科書を見ると、登場人物こそ多様化してはいるが、ALT役は6種ともアメリカ、イギリス、カナダなどInner Circle(中心円)の白人であり、音声教材もアメリカ標準英語である。

つまり「授業は英語で」の根底には、ネイティブ主義/規範主義/白人中心主義のイデオロギーが依然として横たわっている。

さらに英語モノリンガル主義は、英語がすべての場面で通用するという幻想を強化し、多言語尊重を阻害する。

佐藤氏は、授業を英語で行うと「英語を話したい気持ち」が高まると主張するが、意思疎通したい相手は誰なのか、全世界の人々なのか、吟味する必要がある。

これらの障害を越えなければ「授業を英語で」行ったところで、指導要領に述べられている言語や文化の尊重や、国際協調の精神は育成できないのではないか。

実際、指導要領に「授業は英語で」を盛り込むこと自体、矛盾しているのではないだろうか。

おわりに

英語のみによる教授法は戦前に失敗している。

1922年に英国から来日したハロルド・パーマーは、英語で英語を教えるオーラル・メソッドを普及させるために精力的に活動した。
しかし、旧制中学では英語が週6~7時間もあり、生徒も秀才ぞろいだったにもかかわらず、英語による授業は無理だった。
結局、パーマーは1927年に自説を修正し、日本語の使用を認めるようになった(小篠、1995)。

明治43年東京高等師範学校附属中学校教授細目」には、指導内容によって英語と日本語をどう使い分けるかが具体的に述べられている。

「外国語の授業時間には生徒をしてその外国語の行わるる社会中にある如き感を抱かしむるを可とす。たとえば,教場管理に関する事項を談話する場合,すでに授けたる語句を用いて説明し得る場合,国語を用いずとも絵画・身振等の助けをかり英語にて説明しうべき場合,及び復習・練習に用うる問答等はなるべく英語のみを用う。されど,例えば事物の名称の如き,英語を用いては徒らに長き説明を要するもの,並びに文法上の説明の如き,正確を要するものは,国語を用うることとす。(全文の大意を言わしめ又は文の形式及び語句を説明する際に国語を用うる場合あることは読方教授の章参照)」

戦前の英語教師たちの実践は、「時代遅れ」どころか、時代を超えて教訓を与えてくれるのである。

いま教師たちは、英語の面白さ、わかる喜びを生徒に体験させるために様々な創意工夫を行っている。
生徒同士の学び合い高め合いによって全員を伸ばす協同学習も、その1つである。

行政が最優先すべきは、こうした教師たちを物心両面から支援することであり、「授業は英語で」などと拘束することではない。

少なくとも、高校での検証もないまま「授業は英語で」を中学校学習指導要領に盛り込んではならない。

◆参考文献

Cook, G. (2010). Translation in language teaching: An Argument for Reassessment. OUP.

Cummins, J. (2007). Rethinking monolingual instructional strategies in multilingual classrooms. Canadian Journal of Applied Linguistics,10, 221-240.

江利川春雄(2009)『英語教育のポリティクス――競争から協同へ』三友社出版

江利川春雄ほか(2014)『学校英語教育は何のため?』ひつじ書房

久保田竜子(2014)「オリンピックと英語教育――反グローバル的改革」『週刊金曜日』1月17日号

Lee, J. H., & Macaro, E. (2013). Investigating age in the use of L1 or English-only instruction: Vocabulary acquisition by Korean EFL learners. The Modern Language Journal, 97, 887-901.

Levine, G. S. (2014). Principles for code choice in the foreign language classroom: A focus on grammaring. Language Teaching, 47, 332-348.

Macaro, E., & Lee, J. H. (2012). Teacher language background, codeswitching, and English-only instruction: Does age make a difference to learners’ attitudes? TESOL Quarterly, 47, 717-742.

小篠敏明(1995)『Harold E.Palmerの英語教授法に関する研究 : 日本における展開を中心として』第一学習社

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき : 「英語で授業」のイデオロギー明石書店

亘理陽一(2011)「外国語としての英語の教育における使用言語のバランスに関する批判的考察 : 授業を「英語で行うことを基本とする」のは学習者にとって有益か」北海道教育学会『教育学の研究と実践』第6号、33-42.