このたび発売された大修館書店の『英語教育』9月号に、私と久保田竜子先生(カナダ・ブリティッシュコロンビア大学)との共著で「学習指導要領の『授業は英語で』は何が問題か」と題した論文を発表しました(70-72ページ)。
この論文執筆の直接のきっかけは、同誌6月号に掲載された佐藤臨太郎先生(奈良教育大学)の「時代は『授業は英語で』を目指すべきである」での、江利川らの主張への批判に応えることでした。
しかし、単なる佐藤論文批判にとどまらず、この問題の本質を一緒に考え、議論し、少なくとも「高校での検証もないまま『授業は英語で』を中学校学習指導要領に盛り込んではならない」という主張を広く共有していただくために執筆しました。
冒頭の「はじめに」の部分をご紹介します。
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文部科学省は高校学習指導要領に「授業は英語で行うことを基本とする」との方針を盛り込み、2013年4月から実施した。
その検証もないまま、翌5月には安倍首相の私的諮問機関である教育再生実行会議が、突如「中学校における英語による英語授業の実施」の検討を提言した。
政府はそれを「第2期教育振興基本計画」に盛り込み、同年6月に閣議決定してしまった。
もちろん、英語を使う必然性と効果のある指導場面では英語を駆使すべきであり、教師による一方的な解説を日本語で延々続ける授業は改善が必要であろう。
だが、授業を英語で行えば学習効果が高いという理論的・実証的根拠はない(後述)。
それゆえ私たちは、学習指導要領で「授業は英語で」を制度化することに反対してきた(江利川,2009, 2014、久保田,2014)。
それゆえ私たちは、学習指導要領で「授業は英語で」を制度化することに反対してきた(江利川,2009, 2014、久保田,2014)。
他方、たとえば佐藤臨太郎氏のように「時代は『授業は英語で』を目指すべきである」といった指導要領に沿う主張もある(本誌2014年6月号)。
佐藤氏の主張は、江利川のブログ記事「『授業は英語で』は時代遅れ」(「希望の英語教育へ」2014年1月26日)を批判する形で展開された。
しかし、同ブログ記事は、久保田竜子の「世界の専門家が推奨する指導方法は、母語能力を最大限活用した効率的、創造的な言語活動であり、『英語は英語で』式の指導方法はガラパゴス的発想だ」とする主張(久保田, 2014)を紹介するものだった。
そのため、佐藤氏の実質的な批判対象である久保田と江利川の連名で反論し、「授業は英語で」の問題点を考察したい。
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以下は、ぜひ『英語教育』9月号をお読みください。