希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本の外国語教育政策史点描(5)小学校の外国語教育(1)

「コミュニケーション重視」の外国語教育政策史を論じる上で、小学校への外国語教育の導入問題は重要な位置を占める。

小学校の外国語教育(1)

小学校外国語教育をめぐる問題は、今日に至るまで論争と実践的な試行錯誤が続く。
なので、私は自分の意見は極力控えて、事実を冷静にたどってみたい。

一般に「政策史」は文字通り政治的・イデオロギー的な議論を免れ得ず、「公平・中立」な立場などない。

だからこそ、まずは正確な判断材料を提供し、そうした史資料に基づいて事実を忠実にたどる地道な作業が必要だと考える。

小学校の英語教育は、すでに明治初期にはごく一部の小学校で試みられていたが、本格的な実施は1886(明治19)年に高等小学校制度が発足した前後からだった(詳細は、江利川春雄(2006)『近代日本の英語科教育史』の第5章などを参照されたい)。

戦後の新制下では高等小学校制度が廃止されたため、原則として公立小学校の教育課程からは外国語教育が消えた。

では、今日の小学校英語教育をめぐる動きは、いつごろから始まったのだろうか?

多くの研究文献が、臨時教育審議会の第二次答申(1986)で「英語教育の開始時期についても検討を進める」と盛り込まれたことを起点にしているようである。

しかし、私なりに様々な資料を調べた結果、少なくともその15年前まで遡ることがわかった。
企業活動の「国際化」が進む1970年代に入った頃から、以下のような提言が出されていたのである。

経済協力開発機構OECD)が日本に派遣した教育調査団は、1971(昭和46)年11月に「日本の教育政策に関する調査報告書」を英語とフランス語で発表し、邦訳はその翌年9月に出版された(OECD教育調査団編著・深代惇郎訳(1972)『日本の教育政策』朝日新聞社)。

この報告書では、欧米諸国の例を引き合いに出しつつ、次のように外国語教育の早期化を促している。

「現在のように中学一年からというのではなく、もっと早い段階で外国語教育を導入することも、真剣に検討すべきだ。それをはじめる年齢が早いほど、その学習効果も高いことは、数多くの証拠が示している。」

ただし、同報告書が小学校外国語教育の実施国として例示しているのは、「アメリカ第4学年、イギリス 第7学年、フランス第6学年、西ドイツ第5学年、ソ連第5学年」で、いずれもインド・ヨーロッパ語族の言語を主要な母語とする国家群である。

ところが、日本語と英語とは音声、語彙、文法などの言語的距離が著しくかけ離れていることなどから、こうした欧米の例をもって「日本でも小学校から英語を導入すべきだ」というのは、問題を単純化しすぎるのではないか。そういった議論は現在でこそ活発に行われている。

しかし、1970年代初頭の段階では、言語的距離をめぐる認識は十分ではなかった。
それに、日本人は欧米の権威というか「外圧」に弱い。
だから、この報告書のインパクトは大きかったのではないだろうか。

今日では、発音の領域以外では、「早ければ早いほどよい」といった仮説は必ずしも支持されない(たとえば、Thomas Scovel, 2000参照)。

続いて、このOECD教育調査団報告の影響もあってか、日本の財界人を中心とした日本経済調査協議会(委員長・土光敏夫東芝社長)が1972(昭和47)年3月に発表した「新しい産業社会における人間形成:長期的観点からみた教育のあり方」では、慎重な態度ながら、早期外国語教育について研究・実施することが提言されている。

「早期外国語学習の是非については、論議のわかれるところでもあり、慎重に取り扱うべきであるが、かりに早い年齢ほど効果的であるとすれば、語学教育をいかに低年齢段階におろしてゆくかなどについて大いに研究され、かつ実施すべきこと。」

1977(昭和52)年12月には、日本経営者連盟(日経連)が、英語教育改革の一環として小学校低学年における英語学習について提言している。

やはり、「外圧」と「財界」からの要望が、外国語教育政策に大きな影響を与えるのだろうか。

これらを経て、1986年(昭和61)年の臨時教育審議会の第二次答申に「英語教育の開始時期についても検討を進める」ことが盛り込まれたのである。

時代の流れは「官僚主導」から「政治主導」へと移行しつつあった。
この中教審第二次答申を契機として、ついに文部省は重い腰を上げざるを得なくなった。
1991年(平成3)年には文部省初等中等教育局長の私的諮問機関である「外国語教育の改善に関する調査研究協力者会議」の検討課題に、「外国語教育の開始時期の検討」を盛り込み、小学校での英語教育の是非に関する議論を開始したのである。

本格的な動きは翌1992(平成4)年にも続いた。
それは、異例な動きから始まった。
長らく政府・文部省と対立してきた日本教職員組合日教組)の大場昭寿委員長が、同年1月24日の第41次教育研究集会の全体集会で、突如「受験のための英語教育を根本から見直し、生活英語としての英語教育を小学校の早い段階から導入する」と提案したのである。

日教組は当時、労働戦線統一などをめぐる運動方針の違いから、1989(平成元)年11月に全日本教職員組合協議会(1991年以降は全日本教職員組合)が結成されるなど、組織分裂した直後だった。

新しい日教組執行部は、文部省との協調路線をとろうとしていた。
1992年3月3日の日教組臨時大会では、これまでの任意団体から人事院が認証する社団法人になるための規約改正を行い、「争議行為」(ストライキ権)の項目を削除した。

こうした流れの中で、政府・文部省が推進しようとしていた小学校英語の実施提案は、文部省との和解のシンボルとなったのである(朝日新聞1992年2月3日の「文部省(連載第1回)」参照)。

1992(平成4)年5月22日、文部省は大阪の公立小学校2校(真田山小・味原小)と、同じ校区の高津(こうづ)中学校を「国際理解・英語学習」指導の在り方に関する研究開発学校に指定し、英語教育の実験的導入を開始した。

小学4年生には年間15時間、5・6年生には70時間(週2時間)を課し、カリキュラム開発や児童の負担などを調査し、高津中では英語教育の小中一貫制について調査した。

その研究成果は、西中隆・大阪市立真田山小学校(1996)『公立小学校における国際理解・英語学習』(明治図書)として公刊された。

その後、1996(平成8)年には研究開発学校がすべての都道府県に1校ずつ指定された。

1993(平成5)年7月、文部省の「外国語教育の改善に関する調査研究協力者会議」(小池生夫座長)が「中学校・高等学校における外国語教育のあり方について」の報告書を提出した。

その中の「外国語の学習の開始年齢の問題について」で、小学校への外国語教育の導入については賛成・反対の両論を併記する形をとり、結論として教科としての導入は見送り、「何より実践的な研究を一層積み上げることが肝要であり、研究開発学校等の制度を活用して研究実践を充実することが適当である」とした。報告書から引用しよう。

「1.児童は、外国語に対する新鮮な興味と率直な表現力を有し、音声面における柔軟な吸収力を持っているため、外国語の習得に極めて適している。そのため、小学校段階から外国語教育を開始すれば、その能力を中学校、高等学校へと発展することにより、日本人の外国語の能力は著しく向上するとの考え方がある。
 また、小学校段階では日本語を基礎としたコミュニケーション能力の育成をまず重視すべきであるとの考え方や、児童の学習負担という見地からも慎重な検討が必要であるとの考え方もある。

2.小学校で外国語を教科として指導するとなると、上記の問題のほか小学校教育の基本的な在り方や目標についてどう考えるのかという問題、教員の確保の問題、教科のとしての目標、内容、評価をどうするのかという問題、他の教科との関係の問題等検討すべき多くの問題があることが指摘されている。
 このような観点を踏まえ、何より実践的な研究を一層積み上げることが肝要であり、研究開発学校等の制度を活用して研究実践を充実することが適当である。
 その際、研究を内容的に深め、授業時間内での取り組み、部活動等課外活動としての取り組みなど様々な幅広い試みができるような実践研究を行うことが必要である。」

この報告書を受けて、中央教育審議会は1996(平成8)年7月19日の第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について」で、小学校での外国語教育については教科化を見送る方針を提言した。

「小学校における外国語教育については、教科として一律に実施する方法は採らないが、国際理解教育の一環として、「総合的な学習の時間」を活用したり、特別活動などの時間において、学校や地域の実態等に応じて、子供たちに外国語、例えば英会話等に触れる機会や、外国の生活・文化などに慣れ親しむ機会を持たせることができるようにすることが適当であると考えた。」

こうして、1998(平成10)年7月29日には教育課程審議会が「新しい小・中・高の教育課程編成の在り方について(答申)」を提出し、週5日制への移行にともなう授業時数の70時間削減、小・中学校の教育内容の3割減、中学校選択科目の大幅増、総合的な学習の時間の設置などを提言した。

いわゆる「ゆとり教育」への指針となるのだが、「ゆとり教育」そのものは1970年代から追求されていた。

この答申をまとめた教育課程審議会の会長だった三浦朱門は、この「ゆとり教育」という言葉の本当の意味は、「エリート教育とは言いにくい時代だから、回りくどく言っただけの話だ」として、次のように述べている(斎藤貴男(2004)『教育改革と新自由主義』25頁)。

「できん者はできんままでけっこう。戦後五十年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、これからはできる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。百人に一人でいい、やがて彼らが国を引っ張っていきます。限りなくできない非才、無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいいんです。」

彼の言う「実直な精神」を養うために、その後一段と道徳教育が強化されるのである。

この教育課程審議会答申を受けて、1998(平成10)年12月14日には小学校学習指導要領が改訂され、「総合的な学習の時間」の配慮事項として、以下のように規定された。

「国際理解に関する学習の一環としての外国語会話等を行うときは、学校の実態等に応じ、児童が外国語に触れたり、外国の生活や文化などに慣れ親しんだりするなど小学校段階にふさわしい体験的な学習が行われるようにすること。」

こうして、3年生以上の「総合的な学習の時間」の「国際理解に関する学習の一環」という制約の中でではあるが、戦後の公立小学校の教育課程に初めて「外国語会話等」が盛り込まれた。

これによって、新たな指導要領が施行された2002(平成14)年度より、実質的な「英語教育」を行うことが可能になったのである。

(つづく)