新たな子ども(孫かな?)が生まれた気分。
とても嬉しいです。
教育効果も検証されないまま、多大な犠牲のもとに実施される小学校英語の早期化・教科化、英語による英語授業の強制、大学英語入試の民営化などなど。
現在の外国語(英語)教育政策を冷静に検討するためには、歴史的な流れに沿って「いま」を考察する必要があります。
古代には、どんな国造りをするかという真剣な模索の中で、中国語を学び、大陸の思想と文物を取り入れました。
江戸時代には、長崎をはじめとする「4つの口」で、「鎖国」という思い込みが吹き飛ぶほど、多様な外国語が駆使されていました。
幕末からは、列強の圧力の下で、国家の存亡を賭けて、ロシア語、フランス語、英語、満州語などが研究されていました。
明治期には西洋学問を摂取し、日本を近代化するため、英語をはじめとする西洋語が学校教育に組み込まれました。
他方で、アジア諸語は無視され、あるいは大陸政策に呼応して変則的に学ばれ、日本の帝国主義的な成長と語学教育とがパラレルに進みました。
大正期には、文部省が「外国語教育のいっそう効果的な教授法はどうあるべきか」について教員たちに直接諮問し、教員らは活発な議論を経て「答申」を文部省に返していました。
行政と現場が直接対話していたのです。
行政と現場が直接対話していたのです。
敗戦から1960年代にかけて、外国語教育政策を立案したのは当代一流の英語研究者や教育者たちでした。
ただし、東西冷戦体制の下で、日本を親米国家として繋ぎ止めるための、アメリカの巧妙な英語教育振興策も実行されていました。
1970年代以降、国際化を急ぐ財界は外国語教育への要求を提起しはじめ、1980年代には財界の意向を受けた政府が、外国語教育政策をトップダウンで立案するようになりました。
その傾向は1990年代以降に加速化し、2000年代に入ると経団連などの財界が、自己の経済的利益のために露骨な教育要求を首相官邸に求め、人事権まで握った官邸は文部科学省を押さえ込みながら、「官邸主導」の外国語教育政策を強行するようになりました。
歴史的に見て、現在の外国語教育政策は異常な暴走を続けています。
まるで、健康な肉体に巣くう癌のような様相です。
しかし、癌に未来はありません。
日本の外国語教育はどうあるべきなのか。
そのことを、この国のあり方と共に考えるには「政策史」として記述するしかありませんでした。
出版まで7年も待ち続けてくださった「ひつじ書房」に感謝しつつ、マクロな視点から外国語教育政策のあり方を考える素材にしていただければ幸いです。