希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

東京大学創設時の教授言語

ある方から以下の質問をいただきました。
日本の英語教育の重要な一コマ、もっと言うと、極端なまでの英語偏重のルーツを考える上でおもしろいテーマですので、一緒に考えてみましょう。



岩波の『近代日本総合年表』の1883(明治16)年4月のところに、「文部省、東京大学
において英語による授業を廃し、邦語を用いることとし、かつドイツ学術を採用する
旨上申(5.1太政官裁可)」とあるのですが、創立初期の東京大学はすべて英語で授業
していたと理解してもいいのでしょうか。雇われ外人教師が英語で授業したのはわか
りますが、日本人教授も英語で授業していたのでしょうか。東京英語学校、東京予備
門は大学の英語授業に備えてのリスニングの訓練教育機関であったと考えられるでし
ょうか?


<回答>

東京大学の歴史は複雑ですが、「東京大学」として正式に発足した1877(明治10)年の時点では、専門学を担当していた専任教員の多くは外国人でした。
法・理・文の3学部の教授は、日本人4名に対して、外国人教授は17名(アメリカ8、イギリス4、フランス4、ドイツ1)です。
また医学部では、日本人教授5名、外国人教授が11名で、大半はドイツ人だったようです。

ですので、大半の授業、試験、卒業論文は「外国語」によっていたようです。
まだ専門用語の日本語訳が定着してなかったために、日本人教授も原書(洋書)を使って、主に外国語で授業や試験をした場合が多かったようです。

西洋の学術用語を日本語化する上で決定的な役割を果たした『哲學字彙』を東大の井上哲次郎らが刊行したのは1881(明治14)年のことです。
→哲学字彙本文

しかし授業は「すべて英語」というわけではありません。英語が中心でしたが、上記の外国人教授の構成から明らかなように、分野によって外国語に違いがありました。医学部などはほとんどドイツ語です。(今でもカルテなどドイツ語のなごりがあります。)
いずれにせよ、大学生には複数の外国語能力が必須でした。(1991年まで第二外国語が必須だったように。)

なお、「大半の授業」と述べたのは、東京大学への移行時に文学部の中に「和漢学科」が創設され、さすがにこれは日本語(漢文を含む)で行われたからです。

日本語中心への転換は、1881(明治14)年ごろからです。この年から「教授」の称号は日本人だけに限られるようになり、外国人は「外国(人)教師」という一段低い職階となりました。日本人の中にだんだんと専門分野を教えられる人材が育ってきたためです。

こうして、この明治14年には、4学部の教授の構成が日本人21名、外国人16名と初めて逆転しました。

1882(明治15)年には、法学部で卒論に日本語または漢文を用いてもよいことになりました。

この頃には、政府が派遣した日本人留学生が帰国して教授に就任し始めますから、かれらは「原書」を使い、外国語を中心にしつつも、日本語を交ぜながら授業をしたようです。

以上の流れの上で、1883(明治16)年に「文部省、東京大学において英語による授業を廃し、邦語を用いることとし、かつドイツ学術を採用する旨上申(5.1太政官裁可)」となるわけです。
ただし、「英語による授業」は内実から言うと「外国語による授業」または「英語を中心とした授業」です。

ドイツ学が振興されたのは、自由民権運動への対抗措置として、英国流の立憲政治やフランス的な共和制および社会主義思想の影響を弱め、プロイセン流の国権的君主制思想を強めて、天皇制を強化しようとしたためです。思想統制の一環ですね。最も忠実にそれを実行したのが陸軍で、その結果は歴史が示すとおりです。

なお、東京英語学校、東京予備門は大学入学用の語学学校ですが、リスニングだけではなく、4技能全般を鍛えたようです。今で言えば、TOEFL600点コースといった感じでしょうか。なんせ、当時の東京大学に進むということは海外の大学に留学するのと同じでしたから。

手頃な参考文献としては、最近出た天野郁夫『大学の誕生』(上巻、中公新書、2009)が便利です。
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また、寺崎昌男『東京大学の歴史』(講談社学術文庫、2007)が読みやすいです。
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