希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

伊藤和夫の外国語教育論(1)

7.11慶應シンポ「英文解釈法再考:日本人にふさわしい英語学習法を考える」のために、明治以降の英文解釈法に関連する本を集中的に読んだ。

その中で、あらためて「すごい!」と思ったのは、駿台予備学校講師だった伊藤和夫(1927-1997)の業績、とりわけ彼の外国語教育方法論である。

この点は、シンポジウムの会場でも、期せずして大津由紀雄さんと同じ意見だった。

伊藤氏(駿台関係者は伊藤師と呼ぶようだが、以下は敬称略)の業績などについてはサイト上でかなり紹介されているので、ここでは僕の琴線に触れた、今日の外国語(英語)教育に示唆を与える言葉について、思いつくままに紹介したい。

伊藤は亡くなる年(1997)に刊行した遺言ともいうべき『予備校の英語』(研究社)の最後のページに、次のように記している。

「英語教育の何たるかを知らぬ人が大学・高校・中学の英語を支配している状態、それを何とかしなければ英語教育の未来は暗い」

僕もこの間、日本経団連をはじめとする素人集団が作成した英語教育方針が、政治献金をテコに、文科省の「『英語が使える日本人』育成のための行動計画」(2003-07)などとして実施されてきたこと、その致命的欠陥が第二言語としての英語(ESL)と外国語としての英語(EFL)とを取り違えていることなどを明らかにしてきた。

伊藤は予備校という、いわば英語教育の矛盾の集約点のような現場で、膨大な受験生を相手にしながら、この問題に気づいていた。
10年以上も前にである。

彼は言う。

「英語を母国語として習得する場合、または一日二十四時間のすべてを英語の中に身を置いて英語を学習する場合とはちがって、すでに相当の年齢に達した学習者が学校教育の中で外国語として学ぶ場合は、英語と対象の間に既習の言語である日本語を介在させることは、その方法を誤らなければ学習の便法であり捷径である。(中略)学習にあたって日本語への言いかえを全く排除しようとすることは、学習を非能率的にするのみならず、学習内容をあいまいなものにしてしまう危険を常にはらんでいるのである。」(『予備校の英語』122-123頁)

ここには、日本のようなEFL環境で外国語を習得する場合での日本語使用の意義が明快に書かれている。

では、日常的に外国語を使用しない環境で外国語を学ぶ意義はなにか。
伊藤はきっぱりと宣言する。

「筆者は外国語教育の最大の目的は日本語の理解と運用力を高めることにあると考える。」
「人は鏡にうつさなければ自分の顔を知ることはできない。同様に、現代の日本語について知り、その運用力を高めようとすれば、それをうつす鏡として、外国語(この場合は英語にかぎらない)を介在させることが必要なのである。」(同123頁)

本ブログでも繰り返し批判してきたように、新高校指導要領では「授業は英語で行うことを基本とする」と定めた。

英語力のみならず、母語力とそれによる思考力をさらに低下させ、精神の植民地化を図り、日本を内側からアメリカに売り渡す方針であると僕は考えている。
(僕は用語として嫌いだが、「亡国の」英語教育方針といってもいいだろう。)

その意味で、伊藤の外国語(英語だけではない)教育論を再読する価値は大いにある。

*(2010.8.29 追記) 伊藤和夫の『予備校の英語』については、広島大学の柳瀬陽介先生がご自身の解釈も交えて、みごとな紹介記事を書かれています。ぜひお読みください。
  http://yanaseyosuke.blogspot.com/2010/08/1997.html

(つづく)