希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

日本英語教育史研究の歩みと展望(8)最終回

12月11日は皆既月食
和歌山市内でも、とても神秘的な光景を見ることができました。

オリオン座の上方で、皆既時には月が濃い銅のような色になり、明るい部分とのコントラストが不思議な美しさでした。(下の写真は手持ちのデジカメで撮ったものです。)

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さて、連載の続きで、いよいよ最終回です。

日本英語教育史研究の歩みと展望(8)最終回

4 課題と展望

(4)英学史・英語教育史研究の問い直し

 英学史・英語教育史研究が成熟するにつれて、その学問的なあり方に対する批判的な問い直しが必然的に起こってきた。

その代表例が、中村敬の「英語教科書の1世紀:英学史方法論の再考(1)」『成城文藝』第173号(2001)および「英語教科書の1世紀(2):戦後民主主義と英語教科書」同誌177号(2002)〔『なぜ、「英語」が問題なのか?―英語の政治・社会論』三元社、2004に再録〕である。

 中村は、前掲の高梨健吉・出来成訓『英語教科書の歴史と解題』(1994)を取り上げ、「年代的記述と言語教育の技術上の分析を主体とする伝統的英学史の方法では、日本における社会問題としての『英語問題』の歴史的連続性を解明することは不可能である」(中村前掲書123頁)と指摘した上で、教科書の政治性を認識し、題材に潜む植民地主義言説などを批判する必要性を主張している。

 さらに中村は、英語教師たちの「政治的無意識は、一つには、意図的に政治を切り離した『応用言語学』を、英語教育の理論的よりどころにしてきたから」(152頁)であるとする根源的な問いかけを行っている。

 こうした問題提起を受け止め、方法論を問い直すことが、今後の英学史・英語教育史研究の発展に不可欠であろう。

 この問題では、小林敏宏音在謙介による共同研究と提言も見過ごせない。両氏は「『英語教育史学』原論のすすめー英語教育史研究の現状分析と今後の展開への提言」『拓殖大学論集―人文・自然・人間科学研究』第17号(2007)で、これまでの英語教育史研究の多くが「『思想』的側面を的確に担保していない」ため、「細分化された事例報告のオンパレード」の様相を呈しているとして批判し、「『個別事例』をより大きな『全体』の文脈の中で解釈するために不可欠な理論的枠組みを構築する手法の導入」(36―37頁)、つまり、「自らの学としての起点となるべき原論の構築」が焦眉の課題であると提起している。

続いて、各論編の「『英語教育』という思想―『英学』パラダイム転換期の国民的言語文化の形成」同誌第21号(2009)では、「『日本』『英語』『教育』といった日本語(国語)の概念の文化意味論・史学史論的考察から始める必要がある」として、「『英語教育』とは近代日本が国民国家制度を確立させる過程で創出されたこの国独特の言語文化思想」であったと論じている。

 今後は、こうした鋭い問題提起を学界内に浸透させていく地道な活動が必要である。それと同時に、「細分化された事例報告のオンパレード」と批判するのであれば、そうではない彼ら自身の方法論に従った英語教育史研究の思想性豊かな成果を実地に示していくことが重要であろう。

(5)大学院生・若手世代の英語教育史研究

 学界の展望は、若手の成長にかかっている。その意味で、英語教育史に関する秀逸な研究成果を発表する若手世代が台頭してきたことは喜ばしい。

 東京大学を例にとれば、平賀優子の博士論文「日本の英語教授法史―文法・訳読式教授法存続の意義」(2008年度)は、幕末から現在までの日本における英語教授法史を丹念に考察し、文法形式と意味を重視した国産の「文法・訳読式教授法」が日本の英語学習環境に最適であるが故に存続してきたことを実証し、今日流行する音声重視の教授法のあり方に再考を迫っている。

 斎藤浩一(東京大学博士課程)の修士論文「〈学校文法〉の論理―その成立の過程と要因」(2008年度)では、伊藤裕道の先行研究(前述)などを踏まえ、幕末・明治期の英米人向けと日本人向けの英文法書を詳細に比較検討し、日本人向け「学校文法」の成立の必然性を実証することで、文法軽視の現状に警鐘を鳴らしている。平賀と並んで、現状への鋭い問題意識が光っている。

 斎藤浩一はこの他、「ブリンクリ著『語學獨案内』と斎藤文法 ― 日本における日英比較対照研究の源流 ―」『日本英語教育史研究』第25号(2010)、「日本の学習英文法史:「国産」文法項目を中心に」東京大学大学院総合文化研究科『言語情報科学』第9号、そして日本英語教育史学会賞を受賞した「明治期英文法排撃論と実業界」『日本英語教育史研究』第26号(2011)などを精力的に発表している。

 田畑きよみ東京大学博士課程)の修士論文「明治初期の公立小学校における英語教育の研究―地方教育史・教科書調査の結果から」(2009年度)は、全国各地での丹念な実地調査によって膨大な一次資料を発掘し、手つかずの領域だった明治初期の初等教育における英語教授と教科書の実態解明に迫った画期的な労作である。

 寺沢拓敬東京大学博士課程)による「日本社会における英語の教育機会の構造とその変容―英語力格差の統計的分析を通して」『言語政策』第5号(2009)は、社会学の視点から英語教育の社会的機能を考察し、綿密な調査と緻密な統計処理で英語力格差の実態を解明した優れた研究である。

 山口誠は東大の博士課程在学中に『英語講座の誕生―メディアと教養が出会う近代日本』講談社、2001)を刊行し、これまで未解明な点が多かったラジオ英語講座の歴史を解明した。文体の生硬さや若干の事実誤認をとがめるよりも、斬新な着想と大胆な分析を歓迎したい。「『英語』をめぐる批判的=社会文脈的な歴史研究はもっと盛んになってよいはずだ」とする若き挑戦者の課題提起に、我々は応えていくべきであろう。

 立教大学大学院異文化コミュニケーション研究科の関係者による斬新な英語教育史研究も注目される。綾部保志編、綾部保志・小山亘・榎本剛士著『言語人類学から見た英語教育』ひつじ書房、2009)は、「先進的な学知である社会記号論系の言語人類学が呈示する言語コミュニケーション理論を、英語教育に導入した」(257頁)最初の著作である。

 この本の中で、綾部は「戦後日本のマクロ社会的英語教育文化」で学習指導要領の変遷と社会構造の変化との関係を考察している。戦後における英語教育の大衆化によって「知的エリートたちに向けた古典主義的な言語教育は、日常生活世界に即した通俗的なものへと変わり」、それに伴って英語教育政策も「国民の賛同を得やすい新自由主義大衆迎合主義(ポピュリズム)に傾斜」(160頁)したとする指摘は鋭い。
 
 また榎本は、戦後の英語教科書を批判的談話分析(Critical Discourse Analysis)の手法で解読し、「『コミュニケーション』を志向する英語教科書が、『登場人物』という手法を通じて、新自由主義とそれを補完する国家主義という指針的イデオロギーに支えられた今日の教育(改革)というコンテクストとつながる」(233頁)ことを明らかにしている。大胆で刺激的な研究である。

 以上のような、学界の次代を担う若手研究者が育ちつつあることを歓迎し、その斬新な方法から学び、大胆な問題提起を共有したい。

 同時に、若手の才能を発揮できる研究ポストを広げるために、貧困な高等教育政策を是正させていく責務が我々にはある。そうした努力を伴わない「展望」など空虚な幻想であることを肝に銘じたい。

 以上、日本英語教育史研究の歴史的な概観と、近年の研究動向、および課題と展望を述べてきた。紙幅の制約と、筆者の能力の限界から、遺漏や不備も多いと思われる。建設的な批判を願ってやまない。

(ひとまず完)