希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

格差に抗し,全員を伸ばす英語教育へ(4)

日本の言語環境では,英語による日常会話は,きわめて非日常的です。

我が家では,私が大学で英語教員養成に従事し,長女が外国語学部の英米語学科に在学していますが,それでも家庭内で英会話を交わすことはまずありません。
もっとも,以前,酔っ払って英語でクダを巻いたことはありましたが・・・(^_^;)

もちろん,音声指導や英会話は大事です。
また,多くの日本人がペラペラになりたいと憧れます。
(大脳皮質がペラペラにならないよう注意が必要ですが。)

それでも,会話を学校英語教育の中心に据えることには反対です。
すでに示したように,英語学力がガタガタになるからです。

なのに,どうして1990年代から,英会話を中心とした「コミュニケーション能力」の育成が急がれたのでしょうか。

拙著『英語教育のポリティクス』にも書いたのですが,英会話重視に転換した裏には,多国籍化・グローバル化を進めてきた大企業からの強い圧力がありました。

一部上場の巨大企業が集まる日本経団連の正副会長企業をみると,全株式に占める外国資本の割合は1980年には平均2.7%でしたが,2006年には30.7%へと急増しました。

そのため,こうした企業内では英語が日常的に飛び交うESL的な環境になったところも出てきたわけです。
これが,誤解の一つの社会的基礎です。

外市場への依存や海外生産も増えました。
(ただし,韓国の国内総生産の貿易依存度が82.4%(2009年)であるのに対して,日本の貿易依存度は22.3%にとどまっていますから,安易に韓国の英語教育熱(あるいは英語力)と比較することには無理がありますが。)

こうして1990年代から,韓国や中国の追撃を受け,グローバル展開を焦る巨大企業の首脳陣たちは,学校に「英語が使えるエリート」の育成を要求するようになったのです。

しかし,仕事で英語を使う日本人はせいぜい1割程度です(成毛眞『日本人の9割に英語はいらない。』)
「使える」ことだけを基準とするならば,9割の子どもは切り捨ててもかまわない,ということになります。

それが,今日の英語教育の危機の要因です。
学校教育の科目に「仕事で使える」ことを求めること自体が無謀なのです。

経団連の教育介入を象徴するのが,「グローバル化時代の人材育成について」(2000年)です。

これを見れば,会話重視も小学校英語センター試験へのリスニング導入も経団連が提案し,文部科学省が「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」(2002年)などで実行に移したことがわかります(表1)。

イメージ 1

経団連は方針を実行させるために各党の政策を5段階で評価し,2007年度には自民党に約29億1千万円,民主党に約8千万円の政治献金を斡旋しました。
もちろん,経済界からの実際の政治献金はこの数倍はあるでしょう。

政府は一部の学校に予算を重点配分するなどして英語エリートの育成し,他方で中学校の英語を週3時間に削減するなど,格差を拡大させました。

家庭の所得と英語の成績とが比例するようになり,低所得層の子どもを中心とする成績中下位層の学力が特に低下したのは前回見たとおりです。

こうして,ほんの一握りのグローバル企業の利害で英語教育政策が立案・実施されたことに今日の悲劇があります。

新自由主義によって,一握りの富める者が優遇される一方で,日本社会に一気に格差と貧困がもたらされました。

こうしたやり方に多くの国民が「No!」を突きつけたのが,2009年9月の政権交代でした。
なのに・・・

さて,以上のような格差政策の延長線上にあるのが,文部科学省の「外国語能力の向上に関する検討会」(吉田研作座長)が2011年6月に発表した「国際共通語としての英語力向上のための五つの提言と具体的施策」(以下「提言」)です。

提言は,グローバル企業のための英語エリート育成に特化したスキル向上策であり,英語科の枠を超えた危険な内容を含んでいます。

次回は,この「5つの提言」の危険性を考察しましょう。

(つづく)