授業でジェイムス・キャメロン監督の名作「アバター」を扱った。
何度観ても,実に面白い映画。
学生たちの反応もよい。
学生たちの反応もよい。
人間社会とナヴィの社会とを行き来するうちに,やがて自分のアイデンティティがどちらの側にあるのかがわからなくなる。
映画を観ていた僕自身,最初はナヴィの青い肉体に違和感を感じていたが,やがては鉱物資源のために容赦なくナヴィ族への侵略と殺戮を続ける人間たちに復習したい気持ちになってくる。
(なお,愚かな人間たちが,石油利権のためにイラクや中東を侵略したアメリカと重なる。)
(なお,愚かな人間たちが,石油利権のためにイラクや中東を侵略したアメリカと重なる。)
それは,外国語学習を深めたときの体験と同じではないだろうか。
「外国語の学習といいうのは,本来,自分の種族には理解できない概念や,存在しない感情,知らない世界の見方を,他の言語集団から学ぶことなんです。」
「言語は道具ではありません。金をかき集めたり、自分の地位や威信を押し上げたり、文化資本で身を飾ったりするための手段ではありません。そのような欲望の主体そのものを解体する、力動的で生成的な営みなんです。」
「生き生きとした言葉を習得したいと願うのは人間の本性です。自分の外側にある他者に同期すること,それによってそれまでの自我がいったん解体して,より複雑でより精度の高い自我として再組織化されること,このプロセスは生命の自然にかなっています。だから,わざわざ利益誘導しなくても,人間は自然に他者の言語に仮想的に同一化して,他者に同期しようとするんです。」
「〔文部科学省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」(2003-07)のような〕利益誘導はむしろその自然なプロセスを妨害しているように僕には見えます。『オリジナル神話』も『英語が使えるグローバル人材』も結局は『貨幣』という物神によって人間を操作しようとすることによって,すべての人間に本来備わっているはずの『外へ』というみずみずしい趨向性を傷つけている。今の日本の言葉の貧しさは,この『外へ』向かう自己超越の緊張を失ったことの結果だと僕は思っています。」
いつもながら,内田氏は深い。
外国語によって異なる文化や習俗の人間と同期し,ときにそれになりきることで,あの映画「アバター」のようなドキドキする世界を体験できる。
外国語習得を金儲けの道具にしてしまうのは,あまりに惜しいし,愚かしい。