希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

和歌山県英語教育史(7)

太地における移民用英語教材の刊行

北米移民の町・太地
和歌山県最南部の東牟婁郡太地町(1925:大正14年までは太地村)は全国有数の捕鯨の町として知られているが、明治中期からは北米移民を多く輩出した町でもあった。

和歌山県移民史』には、「全戸数の約6、7割までが移民に関係がある実情」だったと記されている。
1878(明治11)年に111名が死亡・行方不明となる大遭難によって古式捕鯨が壊滅し、人々は移民を余儀なくされたのである。

太地町史』には「明治24年頃、藪内音之助、角川謙二、和田新太郎、筋師千代市、和田小文治、和田五郎市、衣笠米蔵、向井音市、山下忠六、山下菊松の諸氏が率先して渡米したのが、わが郷土のアメリカ移民の草分けであり、先駆者である」とある。

そのなかの筋師千代市こそ、全国でもほとんど例を見ない移民・渡航者用英語教材の著者である。

筋師千代市
1876(明治9)年生に太地村で生まれ、1892(明治25)年に16歳で米国カリフォルニア州渡航、現地で9年間を過ごした。

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この間、英語が通じないことによる幾多の辛酸をなめたため、家内労働や農業に従事するかたわら、現地の小学校や夜学校に通い、また書籍から学んだ英語を書きとめた。

それらをもとに、帰国直後の1901(明治34)年に太地村で、後進の日本人移民・渡航者のための独修書『英語独案内 附 西洋料理法』を出版したのである。

このころ紀南地域では、1896(明治29)年に県立田辺中学校が設立されるまで、英語を教える中等教育機関は存在しなかった。
続く県立新宮中学校の創設は、『英語独案内』の刊行と同じ1901(明治34)年だった。

しかも当時の中学校に進学できたのは学力優秀で富裕層出身の男子だけであり、一般庶民にはほど遠い存在だった。
そのため、『英語独案内』は海外渡航者の自学自習用英語教材として、きわめて重宝な書物であったと思われる。

なお、帰国後の筋師は実業に従事し、太地信託株式会社(大正2年)や太地水産協同組合(大正5年)の設立に関わっている。
1917(大正6)年からは村会議員となり、町制移行後は町会議員を歴任した。
大正14年には和歌山県下で最初といわれる冷凍冷蔵庫を太地町に建設している。

しかし、1929(昭和4)年の世界恐慌の影響で会社が破綻し、1930(昭和5)年には再度渡米している。
1939(昭和14)年6月に帰国したが、直後の8月に太地町で死去した(享年63歳)。

『英語独案内 附・西洋料理法』
筋師千代市編述のこの書は全201頁で、扉の英文タイトルはEnglish-Japanese Dialogue and English-Cookery. Compiled by C. Sujishiである。

発行は1901(明治34)年12月27日、著者兼発行者は筋師千代市(和歌山県東牟婁郡太地村3363番地)、印刷所は青山学院実業部(東京都豊多摩郡渋谷村大字青山南町7丁目1番地)で、定価の記載はなく、大売捌所として太地村の3つの店の名前が記されている。

同書は同じ紙型のまま、1906(明治39)年には東京の求光閣から『初等英語独案内』と改題して発行され、1916(大正5)年末には10版に達するなど、好評を博している。

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さらに、大阪の井上一書堂からも1907(明治40)年に『英語独案内』として刊行された(ただし、奥付に筋師千代市の氏名はない)。

同じ内容のまま3種類も発行されたことになり、一般向けの英語独修書としても広く用いられていたことがわかる。

本書出版の目的は、「緒言」に「米国移住者にして英語を弁ぜざる者又は之より渡航せんと欲する青年諸君のため」と明記されているとおり、米国で生きてゆくためのサバイバル・イングリッシュを集大成したものである。

内容的には単なる英会話書ではなく、「英単語集」「実用英会話文例集」「英文商用文の書き方」「手形と受取証の書式」「西洋家庭料理レシピ」といった実用英語百科事典ともいうべき多面的な構成であり、現代でいえば数種類の辞書機能を備えた電子辞書のような存在であるといえよう。

以下に概要を述べたい。

語彙 
本書はアルファベット、ローマ字に始まり、「時及び気候」、「親族之部」、「日用道具之類」など22項目のジャンル別に語彙を載せている。

発音表記は片仮名である。特に注目されるのは、「数字」110語、「食物之部」86語、「獣及鳥魚類」85語、「日用道具之類」64語などで、いずれの語彙も北米における移民生活には必要不可欠であった。

会話 
生活と仕事に必要な文例が数多く取り上げられている。
たとえば、Get some wood. What shall I do? などの「命令を受けるための言葉」や「何かを尋ねるための言葉」などである。

また、If you can’t raise my wages, then please give me two hours rest in the afternoon.(若し増金が出来なければ午後に2時間の休暇を下さい)といった交渉のための文例も挙げられている。
ここにもやはり、米国での移民の生活状況が如実に反映されている。

手紙・手形・受取証などの書式 
22例のほとんどが商用文や注文書など、仕事に必要とされるものであり、うち半数が働き口を求める新聞広告である。

文例からは、家事仕事をしながら学校に通う学僕やコックなどの職を見つけることが移民として生きてゆく切実な条件であったことが読みとれる。

その後に、手紙の宛名の書き方、手形の書式、受取証の書式、注文書式が続く。
これらは日本との通信や送金に不可欠であるが、故郷の太地村に宛てた文例が多いなど、和歌山の香りが強く漂う希有な英語教材となっている。

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日用西洋料理法 
本書の最大の特徴は、英語独習書であるにもかかわらず日本語での日用西洋料理法が附されていることである。
それは、当時の日本人移民はまず白人家庭で住み込みの職を得る例が多く、西洋料理を作れる能力が不可欠だったからである。

そのために本書では、スープ、ソース、サラダ、メインディシュ、デザートの作り方に至るまで、アメリカの典型的な家庭料理を中心に132例もの料理方法を紹介している。
当時の北米移民の苦労が偲ばれる。

このように、本書は異文化適応トレーニングの実践書でもあった。

後進が異国で生き残るために、求職から送金に至るまでの英語を網羅し、さらには実際の仕事に必要な西洋料理法までをも伝授しようという構成は、移民先で自らが辛苦をなめた体験者でなければ生まれ得なかった発想であろう。

現に、西洋文物の摂取や上級学校の進学に力点を置いていた明治期の中学校などには、こうした英語教材はみられない。
その点で、『英語独案内』はユニークな文化史的価値を有している。

英語を教える中等教育機関がまだ普及していなかった時代に、和歌山の移民・渡航者たちはどのように英語を学んだのであろうか。

その解答の一端を、筋師千代市の『英語独案内』は示している。

それは移民体験者による、後進移民・渡航者のための教育啓蒙活動の書であり、学校教育とは系譜を異にする民衆レベルの自立的で自主的な社会教育活動の書であったといえよう。

(参考文献)
江利川春雄『日本人は英語をどう学んできたか:英語教育の社会文化史』研究社、2009 (4章1節)

つづく