希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「高校生・大学入試にTOEFLを」の愚(2)

昨日(4月13日)に「『大学入試にTOEFLを』の愚」を掲載したところ、大きな反響をいただきました。

通常は1日に200~300アクセス程度なのですが、この1日半ほどの間に6,000アクセスを記録しました。
さまざまな書き込みもいただき、ツイッターfacebook、メールでも多数のコメントをいただきました。
ほとんどが共感であり、激励でした。

この問題にどれほどの人たちが関心を寄せ、不満と反発を懐いているかを感じました。
(なお、より正確さを増すために、今回以降のタイトルは「『高校修了要件・大学入試にTOEFLを』の愚」とさせていただきます。)
*その後、「提言」の本文が入手できましたので、より正確に「高校生・大学入試にTOEFLをの愚」とさせていただきました。(4月23日追記)

また、前回のコメント欄にも書いたのですが、こうした問題が政府筋などから提起されたときに、「またか」であきらめてはいけません。

今回のように活発に議論することで、大学入試のあり方をどうするか、外国語の力をどう付けるか、現在の教育課程や指導法、さらには教育条件や予算・人員配置のどこに問題があるかなどを真剣に議論していく必要があると思います。

さて、そうした中、NHKの「ニュースで英会話」などでご活躍の鳥飼玖美子さん(立教大学特任教授)から新著『戦後史の中の英語と私』(みすず書房、本体2800円)が届きました。(*偉そうで恐縮ですが、鳥飼「さん」と呼ぶ約束なのです。)

本書は、もちろん鳥飼久美子さんの自伝でもありますが、戦後直後の様子、60年代のアメリカ、アポロ、万博、沖縄返還、大学をめぐる動きなど、それぞれの時代の社会状況のなかでご自分の活動が描かれています。
しかも資料の扱いがきわめて正確で信頼性が高いので、戦後英語教育史の第1級の文献としても読むことができます。

文章がとても瑞々しく、上質のエッセイを読むようでいて、英語教育の在り方についても著者一流の見事な論が展開されています。

特に、「自分の歌が歌いたくなって」通訳から大学教員に転身する決意、3人の子育てをしながらの大学院留学、還暦を前にして博士号を目指して頑張る著者の姿などには感動を禁じ得ません。

本書のうち、第10章の「思い込みからの脱却」は、このたびの「高校修了要件・大学入試にTOEFLを」という与党の「提言」を考える上でも大きな示唆を与えますので、やや長くなりますが、紹介させていただきます。

(なお、鳥飼さんにはTOEFLTOEICと日本人の英語力』講談社現代新書、2002)という見事な著作もあります。併せて一読を勧めます。)

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TOEFLテストの主たる目的は、大学や大学院での勉学を可能にする英語運用力を測定することであるから、リスニングでは講義を聞いて理解できるかどうか、リーディングでは学術的な内容を英語で読めるかどうか、さらにはレポートを書けるくらいのライティング力、自分の意見を言えるようなスピーキング力などを測る。「日本の大学入試に出る英語の長文読解は良くない、あんなものがあるから喋れるようにならない、音声中心のTOEFLに切り替えるべきだ」などと真顔で言う人は、一度でもいいからTOEFLを受験してみるべきだ。大学入試の長文読解どころではない、一パッセージ七〇〇語はあるものを三~四種類読ませる。リスニングは会話だけではなく、大学の講義のようなものを短いながら聞かせる。さらに、読んだり聞いたりした内容について話したり要約を書いたりしなければならず、自分の意見を三○○語程度で書く試験もある。TOEFL iBTテストを実体験すれば、根拠のない「思い込み」は直ちに消え去るはずである。

(*引用者注:ここでカギ括弧で紹介されている「日本の大学入試に出る英語の長文読解は良くない、あんなものがあるから喋れるようにならない、音声中心のTOEFLに切り替えるべきだ」といった発言は、鳥飼さんが実際に審議会の委員から聞いた言葉(『TOEFLTOEICと日本人の英語力』18-19頁)。)

今日の日本は、戦時中とは全く逆の流れになっており、社会をあげて「英語は絶対に必要だ」と思い込み、「コミュニケーションに文法は不要」「受験英語があるから話せない」「大学入試はTOEFLTOEICにすべき」という思い込みに浸っている。この状況が健全だとは思えない。戦時中の「英語は適性語」が今や「英語は国際語」となったことは果たして進歩なのかどうか。コインの表と裏のように、主張は一八〇度異なるけれど、社会全体が根拠もなく思い込んでいる、という意味では同じで、本質は変わらないという気がしてならない。
 このような「思い込み」が、いかに危険であるかは、二〇一一年三月一一日大震災とその後の原発事故で、私たちは思い知ったはずである。
 「思い込み」から脱却するには、個々人が批判精神を持って、自分の頭で判断をするしかない。空気を読むのではなく、社会を覆っている空気が果たして安全なものであるのかどうか、自分の力で見極めるしかない。「英語は必要だ」という言説は、なるほどと思わせる説得力があるが、それが世界のすべてではない。本当に必要なのかどうか、必要だとして、それはなぜなのか、人に聞くのではなく、自分で確かめなければならない。
 思い込みを切り崩す英知と勇気が今ほど求められている時はないように思う・

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最終章の最後を飾るにふさわしい、見事なメッセージです。

この鳥飼玖美子さんのご指摘は、今回の自民党教育再生実行本部」による「高校修了要件・大学入試にTOEFLを」という提言に対しても、そのまま当てはまるのではないでしょうか。

鳥飼さんや仲間の英語教育研究者たちと、今回の危険な「提言」をなんとかしなければと話し合っているところです。