朝日新聞の金融情報面にある「経済気象台」には、ときどきハッとするような鋭いコラムが載る。
この欄は「第一線で活躍している経済人、学者など社外筆者の執筆による」という。
3月31日のテーマは「英語狂想曲」。
簡潔にして、問題の核心を突いている。
『英語教育』誌などでよく目にする御用論文よりも、よっぽど面白い。
コラムは、政府が進める小学校英語の早期化(3年生から)に疑問を呈している。
「効果をあげるのだろうか」と。
大江健三郎氏の英語を紹介し、「流暢な発音ではなかったかもしれないが、的確な語句でその思想、問題意識などを語ったことに記者が感銘を受けていた」という。
大事なのは中身であり、中身を紡ぐ思考力である。
開始が早いかどうかではない。
開始が早いかどうかではない。
決定的なのは、次の指摘だろう。
「英語を使える日本人が少ないのは、英語教育の開始時期が遅いせいではなく、生活するうえで英語が必要なかったためだ。語学は必要にせまられれば上達する。」
食べたくもない子どもの口を無理やり開けてエサ(英語)を流し込んでも、英語力は付かない。
教育はフォアグラ作りとは違うのである。
次の指摘も、私と同じ問題意識(危機意識)だ。
「大学生の日本語力が劣化していると指摘されて久しいが、日本語で表現できないことが、英語でできるはずはない。まずは母国語できちんと会話ができ、論理的な文章を書けるようにすべきだ。」
そうそう。
ただ、大学生だけが問題ではない。
ただ、大学生だけが問題ではない。
「我が軍」などという憲法違反の日本語を国会の場で堂々と使い、居直る首相の方がよっぽど日本語、というか思考力が劣化している。
コラムの結論は、「過度な英語熱が教育の本質を見失わないことを願う」。
悪くはないが、不徹底だ。
私たちは、はっきり言おう。
小学校の外国語活動を3年生に下ろすことに反対する。
小学校の英語を5年生から教科にすることにはもっと反対する。
沈黙は加担である。