希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

伊藤和夫の外国語教育論(2)

絶えざる自己批判による進化

否定は発展の原動力である。

西洋哲学を専攻した伊藤和夫の精神には、その底流にこの考えが流れていたのではないか。

伊藤和夫は自分自身に対して仮借のない批判を加えることで、たえず進化をとげてきた。
たとえば、彼の最も初期に属する著作である『新英文解釈体系』(1964)に対して、後年「若さに特有のひとりよがりに満ちています」自己批判している(『予備校の英語』1997、54-55頁)。

1966年に駿台高等予備校(現・駿台予備学校)に移籍すると、そこでの思索と実践をふまえて、伊藤は画期的な『英文解釈教室』(1977年初版)を刊行する。
しかし、この本に対しても伊藤は次のように自己批判する(上掲書、175頁)。

「直読直解への具体的な方法の一つの提示」(同書「はしがき」)と名乗るにはこの本は徹底性を欠き、線の方向性にこだわることによって開かれる展望がいかに豊かでありうるかについての見通しもなかったこと、それが二十年の歳月を通してふり返った場合の筆者の最大のうらみであった。
 『解釈教室』の執筆当時、筆者は従来の参考書と異なった総合的視点と説明の論理的方法を発見したという喜びまたは思いこみに夢中で、研究論文を書くことと、学生向けの参考書を書くことのちがいがわかっていなかった。従来から重要とされてきた構文や、その存在に気づかれていなかった構文のいかに多くが、「新しい」観点により統一的体系的に説明できるかを誇示することに熱中するあまり、それが果たして学生に必要であるかどうかに思いいたらなかったのである。」

こうした自己批判をふまえて、彼は次なる参考書群の執筆へと邁進する。
その一つの到達点が、2巻本の傑作『ビジュアル英文解釈』(1988)であった。
「ビジュアル」とは、この参考書で勉強すれば「英語の構造が見えてくる」という意味である。

たえざる自己批判によって内部進化をとげる伊藤とは正反対に、文部科学省(旧文部省)は、ほぼ10年ごとに改訂する学習指導要領に旧指導要領の功罪の検証や総括を一言も明示しない。
つまり、どこに欠陥や問題点があったから改訂したのかがさっぱりわからない。

たとえば、1998・99年に出された指導要領では「『実践的コミュニケーション能力』が外国語科の目標の中核をなしている」とされた(『高等学校学習指導要領解説 外国語編・英語編』1999、11頁)。
なのに、2008・09年告示の指導要領では、キーワードの「実践的」があっさりと棄てられた。

なによりも、僕のブログでも何度か紹介してきたように、このオーラル重視の指導要領下で、中学でも高校でも深刻な英語力低下が進行した。その事実を実証する研究が相次いでいるのである(→過去ログ)

だが、指導要領を作った人たちは誰ひとり責任を取らない。
しかも、あろうことか、高校では科目から「リーディング」も「ライティング」も削除し、「授業は英語で行うことを基本とする」などという荒唐無稽な方針を押し付けてきた。

伊藤和夫は若き日の入院中に「医者は患者によって作られる」という言葉を学んだ。
それを踏まえ、「教師もまた学生によって作られるものではないだろうか」と述べている。代表作である『英文解釈教室』(1977)は「筆者がこれまでに直接間接に関係のあった多くの学生諸君との交流の結果生まれたものである」と締めくくっている(初版「使用上の注意」)。

学習指導要領の致命的な欠陥は、この点である。
学校現場の第一線で働く教員との交流を断ち、密室で作られた「授業は英語で行う」などの実態を無視した方針を押し付けてくる。

現場教員と「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を示さない文科省
これでは「コミュニケーション重視」も先が見えている。