希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

入試答案から見た英語教育の欠陥

明日9月11日は大学院の入試。早朝から終了まで、入試委員長の職責を果たさなければならない。ああ。

入試といえば、実はいま「受験英語」の歴史を調べているのだが、明治期の資料を読んでいると実に面白い。

明日の入試に当てつけるわけではないが、明治期の文部省に報告された入試答案から見えてくる英語教育の欠陥について、ちょっと紹介しよう。

明治・大正期の文部省は、入試の採点に当たった各校の教授たちに試験結果についての詳細な報告を求め、その一部は文部省専門学務局から『高等学校大学予科入学者選抜報告』(1907~1917)などとして毎年のように公刊されていた。

文字通りのお役所文書なのだが、これが実に面白い。赤裸々なのだ。

ここでは、試験委員だった東京外国語学校浅田栄次(1865~1914)の報告書を紹介しよう。

彼は、日露戦争が終わった1905(明治38)年ごろの高等学校入試の英語の答案から見えてくる英語教育の問題点を12項目にわたって列挙している。

100年以上も前の意見とは思えないほど今日の問題に通ずる点が多いので、あえて全文を引用しておこう。(ただし、原文の旧漢字・カタカナ表記は新漢字・ひらがな表記に改めるなど、読みやすくした。)

(1)生徒学力の不同なること。
 ある者は学力極めて劣等にして、いまだかつて英語を学ばざる者の如く見ゆるものあり。これに卒業証を与えたる中学校の責任を問わざるべからず。

(2)教師の学力不十分なること。
 ある答案を検すれば教師が生徒に誤謬を教えたることを明証するものあり。

(3)会話読方等に重きを置かざること。
 今日新式教授法の行わるるにも拘わらず、依然として従来の教授法を用い、まず主として訳読文法等を教え、会話、読方、書取等に力を注がず、甚だしきに至りてはさらに会話、書取等を教えざる中学校ありと聞く。

(4)発音の正しからざること。
 これは生徒の責任といわんよりもむしろ教師の責任なり。

(5)作文教授法の不完全なること。
 課題の種類、添削、説明の方法不完全なるが故に実力を養う能わず。

(6)翻訳の不完全なること。
 訳語を選び訳文を錬すること不十分なり。漢字の誤謬は実に枚挙するにいとまあらず。恐らくはこれ国語教授法の不完全を示すものならん。

(7)文法教授法の誤れること。
 根本的規則を教えずして細則、例外等を教ゆること多きがゆえに作文会話等において文法の学力を応用すること稀なり。

(8)難語難句に重きを置くこと。
 難語難句は奇語奇句なり。多くは野卑猥俗の語句なり。この如きものを学ぶも益なし。むしろ一般の用語を学び流暢なる文章に慣るるにしかず。

(9)外国教師の少なきこと。

 上の如き弊害を生じたるはこの項以下の原因に基づくものならん。

(10)外国人に就きて学びたる内国教師の少なきこと。

(11)速成を主とするが故に実力を養い得ざること。

(12)一組に多数の生徒を編入すること。
 理想を言わば一組に十五名なれども三十名までは差し支えなからん。

浅田栄次は文部省視学委員として各地の学校を視察し、中学校英語科教授要目の制定に参画するなど、中学校現場の実情に精通していた。
それだけに、指導法の誤り、難句難語の偏重、クラス人数の過多などの12項目に至る彼の意見は、当時の問題点をリアルに描きだしていると言えよう。

特に、英語のクラスサイズの理想は15人、せめて30人までと語っているのは、さすがだ。
これを書いたのは105年前の1905(明治38)年。

2010年、文部科学省は、ようやく35人以下学級に動き始めた。

ああ、浅田先生に恥ずかしい。