希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

戦時下の英語教育と入試(2)

1937(昭和12)年7月の日中全面戦争開始から1945(昭和20)年8月のまでの戦時体制下における英語教育の実相を、「入試」をキーワードに考察するシリーズの第2回目。

 入試から英語を排除
 英語が敵性語だとみなされた日中戦争後(1937~)は、英語の授業時間数を削減したり、入試科目から英語を削除する学校が増えていった。
 米英と交戦した太平洋戦争下では、英語は敵国語とされた。英書を読んでいた人が、スパイ扱いされた例もある。

 官立高等農業学校では、すでに1936(昭和11)年の段階で11校中7校が入試に英語を課していなかったが、1941(昭和16)年には全校に広がった。
この年には、官立陸軍予科士官学校も入試から英語を削除した。
官立高等工業学校も1943(昭和18)年までにはすべての学校で入試から英語が削除された。同年には、ついに高等学校の理系で入試科目から外国語がはずされ、翌年には文系を含むすべての高等学校と、医学、薬学系の学校、さらには伝統的に語学を重視してきた高等商業学校までもが入試から外国語を排除した。

これらの結果、1944(昭和19)年の入試で外国語を課したのは、高等師範学校外国語学校海軍兵学校など、ごく一部の学校だけとなった。

 戦前の日本では20歳の男子に徴兵検査が義務づけられていたが、学生については卒業まで徴集延期の特権が保障されていた。
 太平洋戦争が始まった1941(昭和16)年ごろから、入試の志願者・倍率は跳ね上がった。
 徴兵猶予の特典のある高等教育機関(特に理系)に入っておかないと、戦地に引っ張られる恐れが高かったからである。

 ところが、1943年秋には、理工系と教育系以外の学生を対象に徴集延期措置という特権が撤廃された。世に言う「学徒出陣」である。
同年にはまた、戦時の統制経済と工業力の増強計画によって、商業系の学校を工業系に転換する方針が打ち出された。その結果、官立高等商業学校では高岡、彦根、和歌山の3校が工業専門学校に転換させられ、それ以外はすべて経済専門学校に改称された。

 1945年度の異常な入試
 敗戦の年である1945(昭和20)年度の入試は異常ずくめだった。文部省の通牒によって官公私立のすべての高校・専門学校が3期に分けられ、1月から3月までの間に2段階選抜が実施された。
 1次試験では出身学校長の調査書により定員の約2倍までが選抜され、合格者には2次試験で身体検査、口頭試問、筆答試問が課せられた。
 設問は国粋主義軍国主義にあふれ、思想チェックの意味もあった。たとえば、官立専門学校入試では「大東亜戦争に於いて日本精神が最もよく顕(あらわ)れていると思う事例を挙げ、それについて感銘した点を述べよ。(約二百字のこと)」などが出題された。

 空襲の危険が高かった都市部の学校では、鉄かぶとや防空頭巾に身を固めて試験場に集まる生徒もいた。すでに受験生の大半が勤労動員に駆りたてられており、動員先の工場から試験会場に向かう受験生も少なくなかった。
 当然、学力低下が深刻だった。そのため文部省は、筆答試験が学力の程度を考査するものではないことを強調し、この年の官立学校用の筆答試験を文部省が統一して作成した。
 その内容は○×式や選択式などの客観テストであり、従来よりもはるかに平易だった。ただし、外国語は課されなかった。

 そうした中で、海軍兵学校は1945(昭和45)年4月の入校者(77期)に英語の試験を課していた。
 戦時下のため77期生は3,771名、同年度の予科78期生は4,048人という膨大な人数だった。
 エリート集団の彼らは4カ月後の敗戦まで英語を含む普通教育をみっちり施され、戦後復興の要員として各方面で活躍した。
 すでに敗戦を予想していた海軍が、戦後のために精鋭を意図的に温存したという説もある(江利川春雄『近代日本の英語科教育史』7章参照)。

(つづく)