希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

「授業は英語で」の誤りに対する毛利可信教授の見解

院生のK君が、毛利可信(大阪大学名誉教授)の『生涯英語教師』(2009)をもってきた。

毛利可信ーー尊敬する英語名人の一人だ。

山崎貞の『新自修英文典』(研究社)の改訂者としても有名で、僕を含めてお世話になった人も多いはず。

さて、その『生涯英語教師』を読んでいると、毛利が1960年に書いた論文が興味をひいた。

50年以上前の時点で、「日本語を活用して,あるいは媒体として,英語を教えるなどというと,近頃,白い眼で見られる恐れがある」とした上で、その誤りを3点にわたって述べている。

こうした過去の発言から、謙虚に学ぶ必要があるのではないだろうか。

ーーーーーーーーーーー 引 用 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 日本語を活用して,あるいは媒体として,英語を教えるなどというと,近頃,白い眼で見られる恐れがあるが,0ralも無論大切だが,学習者の母語を活用することも目的によっては奨励されなくてはならないと思う.

 日本語を使用する方が能率的な場合は,私は三つあると思う.第一は,動植物の名前などである.研究社の『簡易英々辞典』でも,この種の単語については,英語による言いかえよりも,日本語による訳を採用している.

 第二は「確認」の目的に使う場合である.澤村寅二郎先生はこのようにいわれた。「先生が生徒に教えたこと――英文の意味――が本当に分かっているかどうかをテストする手段として,和訳させてみることは意義がある」と.澤村先生はOralを主体にした教授法を実践せられ,私どもも在学中,その実演を拝見に行ったものであるが,その先生にして,この言あり,大いに味わうべきである.

 私は戦争中,南方の日本語学校で現地の人に日本語を教えたことがある.寄宿制度による6ケ月の集中訓練で,日本人が日本語のみを用いて,日本語を教えて,大いに効果があったと自負していたが,卒業のときのパーティの席上で,あるとき,卒業生代表がいった.「センセイハ,イツモ,ワカリマスカ,トタズネマシタ.ワタシタチハ,イツモ,ハイ,ワカリマストコタエマシタ.ケレドモ,ソレハ,ハンブンハ,ウソデシタ.」母語を全く用いないということが,教師のカラ回り,または自己満足に終わってはならない.

 第三は,外国語の表現法と母国語のそれとを意識的に比較して,早くその相違点に馴れさせるために必要である.
 最近読んだ,ある論文によると,母国語の習慣に馴れ,固まるのは6歳~12歳の6年間だそうである.発音の面でいうなら,幼児の舌が回らないというのは誤りで,幼児はいかなる発音でもできる可能性があるのに,この6年間で,母国語の習慣に合った発音しかできないようになる.つまり舌が回らなくなるのだそうである.私は,これは語法の面でも全く同じであると思う.すでに日本語の表現法で固まってしまった頭を,早く外国語のそれになじませるためには,両者の相違を意識的に理解させ,要点を整理してやることがどうしても必要である.そして私の考えでは,中学校・高等学校における英文法の仕事とは,そのような意昧での整理でいいのだと思う.そんな気持ちでリーダーを眺めると,おもしろい話題が次々に出てくる.語法開眼の第一歩がそこにある. (『研究社月報』1960,9月号)

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【参考】 2013年度から施行される高校学習指導要領(外国語)より。

「英語に関する各科目については,その特質にかんがみ,生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,授業を実際のコミュニケーションの場面とするため,授業は英語で行うことを基本とする。その際,生徒の理解の程度に応じた英語を用いるよう十分配慮するものとする。」