希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

シロウト英語狂想曲との闘いを:若林俊輔先生の「遺言」

本ブログのコメント欄で若林俊輔先生(東京外大名誉教授)の英語教育論が話題になっています。
なので、ひとこと書かせていただきます。

3.11原発事故の直後、「忌野清志郎が生きていてくれたらな」という思いが、突き上げるように起こりました。

同じように、「大学入試にTOEFL等」などというトンデモ方針が出たとき、「若林俊輔先生が生きていてくれたらな」と強く思いました。

しかし、嘆いていても始まりませんし、そんなヘタレでは「闘う英語教育者」だった若林先生に叱られます。

次に続く僕らの世代が頑張らないと、と思います。
(写真は、右が若林先生、左が隈部直光先生;語学教育研究所提供)

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若林先生は「闘う英語教育者」だと申しましたが、とても繊細で、心優しい人でした。
神戸の日本英語教育史学会では六甲山上で同宿でしたが、先生はフルートを取り出して何曲か吹いてくださいました。
大会実行委員長として疲弊していた僕を、なぐさめてくれる配慮だったのかもしれません。

日本の英語教育界を大所高所から、また生徒の目線で批判的に見つめてこられ、大修館書店の『英語教育』臨時増刊号に毎年掲載された「英語教育日誌」を1978年から2001年まで24年にわたり執筆されました(その後任は、2002年度から田島久士先生、2006年度から伊村元道先生で、2010年度分からは僕が担当しています)。

そんな若林先生は、2002年3月2日に70歳という若さで亡くなってしまいました。

その年の3月28日に発行された拓殖大学言語文化研究所の『語学研究』99号は、「若林俊輔教授 退官記念号」でした。

その巻頭を飾る若林先生のエッセイ「やはり『英語教育』のことですが」は、先生のいわば「遺言」となってしまいました。

そこから抜粋します。(拙著『英語教育のポリティクス』にも一部を引用しました。)

いまこそ、読み返すべき文章だからです。

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「英語教育」について一言。何かというと、ここ10年くらいだろうか、わが国の英語教育(いや、外国語教育でもあるのですが)について、シロウトの発言が無闇矢鱈に大きく強くなってきた、ということです。とんでもないのは「英語が話せれば英語は教えられる」という主張(こんなものは「主張」でもなんでもない)です。その典型は「JETプログラム」です。英語を母語とする者ならば英語は教えられる、と思っているらしい。さらにひどいのは、英語がしゃべれる日本人ならば、だれでも英語は教えられると思っている。冗談ではない。私の母語は日本語ですが、私には日本語を教える能力も資格もない。こういう基本的なことが、世間様にはおわかりにならない。
 
 言いたいこと。どうやら、わが国の「教育」全体が狂い始めているということです。英語について言えば、今や全国的に「英語狂騒曲」。調子はずれのトランペットを主旋律として、和音も何もなく、ただわめき散らしている。狂気の沙汰としか言いようがない。

 困ったものですが、これは、トコトン破滅するところまでいかなければわからないのでしょうね(シロウトが跋扈する世界というのはそういうものです)。といって、私自身、このまま腕を拱いているわけにはいかないものでありまして、拓殖大学定年退職ではありますが、まだ少々命はあるようなので(とはいえ、明日の命はわからない)、その命のある限りは、この「英語狂騒曲」と戦い続ける所存であります。

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やはり、先生は最後まで「闘う英語教育者」でした。

この文章が発表された2002年は、文部科学省が財界の意向を受けて「『英語が使える日本人』の育成のための戦略構想」を発表した年です。

いま日本に必要なのは、こんな先生なのに。

と、嘆いていても仕方がありません。
元気を出しましょう。

で、私たちはこの夏、4人で『英語教育、迫り来る破綻』を出しました。
それは、「トコトン破滅するところまでいかなければわからないのでしょうね(シロウトが跋扈する世界というのはそういうものです)」という若林先生と同じ危機感を共有したためでもありますが、何よりも「破滅」や「破綻」を回避したいと願ったからです。

しかし、世論の多くはもとより、英語教育界の一部でさえ、財界人や政治家といったシロウトのよる「英語狂想曲」になびいてしまっています。

孤独な闘いは続くでしょう。

でも、あきらめず、しなやかに、したたかに、がんばりましょう。