希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

明治期の小学校英語教授法研究(2)

枩田與惣之助(まつだよそのすけ)『英語教授法綱要』の翻刻第2回目。

著者の枩田與惣之助は明治末期から昭和戦前期に、英語教育者、英語教授法研究者、道徳教育者、旧制中学校及び師範学校の校長として教育現場の第一線で活躍した。

枩田は1882(明治15)年12月に滋賀県で生まれ、滋賀県師範学校滋賀大学教育学部の前身)を卒業後、小学校訓導(教諭)を経て、広島高等師範学校広島大学教育学部の前身)に入学、1908(明治41)年3月に本科英語部を卒業後、愛媛県師範学校に赴任した。

この愛媛師範時代に授業資料として『英語教授法綱要』を執筆・配布したことは、その序言の日付「明治四十二年一月十四日」と、「本論は教室筆記の労と時とを省略するの目的に出てたるもの」という記述から明らかである。

ただし、本文の末尾には(四〇、二、一九)と記されているので、これが「明治40年2月19日」だとすれば、広島高等師範学校本科英語部2年在学中となり、内容の一部は学生時代のノートに基づいている可能性がある。

なお、枩田は『英語教授法綱要』の内容を大幅に増補改訂して、1928(昭和3)年に『英語教授法集成』(菊判494ページ)を手書きの謄写刷で自費出版している。

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この本は全国に10冊あるかないかの貴重書。いつか内容を紹介したいものだ。→Webcat

さて、前回の目次につづき、「序言」だが、これは拙著『日本人は英語をどう学んできたか』(研究社)に全文掲載したのでカットさせていただき、すぐ本文へ行こう。

日本の洋学史・英語教育史の記述から始まるところがユニーク。
現存する日本の英学・英語教育史研究のうち最も古いものの一つかもしれない。

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英語教授法綱要
             松田與惣之助 *ここは「松」の字

     第一章 本邦に於ける英語の略史

       第一節 本邦洋学の略史
 本邦洋学の略史を知るは英語の略史を知るに先ち極めて必要の事に属す、然れども之か詳細の記述は之を止め、茲には唯洋学年表を明して大体の観念を得るに満足せんとす、年表左の如し。


    本邦洋学略年表

 世紀  年号 年 天皇 将軍

一五○一 文亀 一 後柏原 義澄 南蛮人(西、葡(スペイン、ポルトガル))鉄筒ヲ伝    
                    フ、一ニ曰ク一五一一ナリト
一五四一 天文 一○ 後奈良 義晴 葡国商人鹿児島ニ入港
一五四九 〃 一八 〃 義輝 アンゲル葡語、拉典(ラテン)語ニ通ジ基督教ヲ
                    弘ム
一五八六 天正 一四 正親町 秀吉 基督教ヲ禁ズ
一五九六 慶長 一 後陽成 秀次 葡船土佐沖ニ漂着
一六○○ 〃 五 〃 秀頼 関原役、蘭船堺ニ来リ江戸ニ廻航、淹留(えんりゅう)
一六○八 〃 一三 〃 秀忠 蘭(オランダ)人平戸ニ来ル
一六三八 寛永 一五 明正 家光 島原乱平グ
一六三九 〃 一六 〃 〃 基督教ヲ禁ズ(宗門改)英蘭人追放セラル
一六四一 〃 一八 〃 〃 長崎和蘭商区トナリ、葡人出島ニ居留ヲ許サル
一七〇九 宝永 六 東山 家宣 羅馬(ローマ)伝教師来ル
一七一二 正徳 二 中御門 〃 白石「采覧異言(さいらんいげん)」ヲ著ス
一七二○ 享保 五 〃 吉宗 洋書舶載ノ禁ヲ解ク
一七三九 天文 四 櫻町 〃 吉宗青木昆陽ニ命ジ葡語ノ天文地理書ヲ読マシム
一七四四 延享 一 〃 〃 昆陽蘭文ヲ講ズ  洋文を講ずる始
一七七一 明和 八 後桃園 家治 前野良沢蘭書ヲ昆陽ニ学ブ
一七八○ 安永 九 光格 〃 前野良沢、西善三郎、吉雄幸作、桂川甫周杉田玄白蘭語
                    ノ「人身内景図説」ヲ訳ス
一七八三 天明 三 〃 〃 大槻玄沢蘭学階梯」ヲ著ス
一七九二 寛政 四 〃 家斎 露国使節来リ「北槎聞略」成ル、露学ノ始
一七九六 〃 八 〃 〃  海上鴎波〔=稲村三伯〕「波留麻和解」ヲ著ス辞書対訳ノ始
一七九九 〃 一一 〃 〃 宇田川玄真「医範提綱」ヲ著ス
一八○八 文化 五 〃 〃 英船長崎ヲ侵ス、長崎訳官ノ才学アル者ニ英露両国語ヲ兼学
                    セシム
一八一一 〃 八 〃 〃 江戸天文台ニ翻訳局ヲ設ク
一八一六 〃 一三 〃 〃 玄沢「蘭学凡」(文法書)ヲ著ス 西洋文法書ノ始
一八二六 文政 九 仁孝 〃 青地林宗「気海観瀾」ヲ著ス 理学ノ始
一八三九 天保 一○ 〃 家慶 宇田川榕庵「舎密(せいみ)開宗」ヲ著ス 化学の始
一八四○ 〃 一一 〃 〃 幕府天文方ニ令シ洋書ニツキ反訳セル暦、医、天文書ヲ流布
                    セサランコトヲ力メシム
一八四七 弘化 四 孝明 〃 川本幸民「気海観瀾広義」ヲ著ス
 ○此頃     藤井三郎「英文範」ヲ著ス 英学ノ始
一八四八 嘉永 一 〃 〃 村上英俊仏学ヲ始ム
一八四九 〃 二 〃 〃 幕府翻訳ニ制限ヲ設ク
一八五三 〃 六 〃 〃 ペリー来ル、人心洋学ニ向フ
一八五四 〃 七 〃 〃 幸民等「遠西〔奇〕器述」(写真、鉄道ノ書)ヲ著ス
一八六○ 万延 一 〃 〃 新見豊前守等米国ニ使ス
〃 〃 福沢氏「華英通語」ヲ著ス
一八六二 文久 二 〃 〃 榎本氏等和蘭ニ留学ス
一八六五 慶応 一 〃 〃 市川氏等露国ニ留学ス
一八六六 〃 二 〃 〃 中村敬助、箕作奎吾氏等英国ニ留学ス
一八六七 〃 三 〃 〃 徳川昭武氏等仏国ニ留学ス


   第二節 本邦に於ける英語の略史

慶長五年関原の大戦あり、天下徳川氏に謳歌し、江戸は政治の中心となる、此年英蘭船泉州堺に至り、通商貿易を求む、幕府命じて江戸に廻航せしめしに、船難風に会し、浦和〔正しくは浦賀〕に破る、船中の英蘭人上陸して江戸に達し、貿易を許さる、然れども帰るに船無く、江戸に淹留す、此間英人蘭人の頭人は各屋舗を賜り、時々城中に召されて外邦の事を問はれき、蘭人ヤンヨウスの居所を今八重洲河岸と称し、英人アンシンの居所を今安針町と称す、アンシンは即ち三浦安針なり、之を邦人と英人との接触の初となす、

慶長十三年(一六○八)和蘭人のみは通商貿易の許可を得て肥前平戸に屋舗を構へやゝ見るべき居留地を造りぬ、然るに寛永十五年(一六三八)島原乱あり、徳川政府の一切外人に対する警戒厳になるや平戸の居留地は取崩を命ぜられ、又翌十六年(一六三九)には宗門改めあり、同時に長崎平戸に居る英蘭種人皆海外に放逐せられたりとの記事あり、然れば当時英人の我邦にありしことを知るべし、

十八年(一六四一)和蘭人のみは出島に居留を許さる、従て蘭語は自ら我国に入りしも、英語は我に入るの機を得ざりき、かくて文化五年(一八○八)英船長崎を侵し辺警日に聞ゆ、幕府乃〔方〕伊豆相模沼海の地に砲台を設け「長崎訳官の才学あるものを撰び露英両国の語学を学ばしむ、五年戊辰化文〔正しくは文化〕更に訳官に命じ両国の語を兼学せしむ・・・(外交志稿)」

文化八年(一八一一)江戸浅草天文台中に新に翻訳局を設け大槻玄沢、馬場左十郎、宇田川玄真等をして翻訳を司らしむ、宇田川榛斉の弟子に藤井方亭あり、蘭学医学を修む、次子に三郎といふあり、幼聡慧、夙(つと)に英学に志し著書「文範」あり、蓋し是れ英学を講ずるの始なり(近世名医伝)

嘉永六年(一八五三)米使節ペリ浦賀に来るに及び、英語其他の外国語に対する本邦人の注意を喚起し、安政三年(一八五六)九月十二日応接書中に英夷応対通弁の事を書し「英語修業の義も兼々申渡有之候処云云」といひて「英学励方今一段仕法取調候様にも可仕哉と奉存候云云」と称したり、かくて万延元年には新見豊前守正興、村垣淡路守範正を使節として米国に遣し、二三又従へる者あり、此年福沢(範子囲〔=諭吉〕)氏の華英通語の発行あり、凡例に曰く「余学二英語一日猶浅矣」と、

文久二年(一八六二)幕府は内田恒次郎、榎本釜二〔次〕郎、伊藤玄伯、林研海等を蘭国に留学せしめ、慶應元年(一八六五)市川文吉、小沢圭次郎露国に留学し、同二年には中村敬助、箕作奎吾等を英国に留学せしむ、かくて明治四五年の頃より英学を学ぶもの大に増加したりしが十四五年に至りては大に隆盛に赴き、十九年森文相の時に至り小学校に英語を加へたり

吾人は英学の紹介者として、また奨励者として福翁及中村翁を記せざるべからず、三田の慶應義塾と小石川の同人社とは実に英学をして今日の如く散布せしめたるものなればなり

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以上、洋学史・英語教育史に関する記述である。

今日の水準からみれば明らかな誤解もある。
たとえば、枩田は藤井三郎(質)が『英文範』を著したとしているが、今日では否定されている。

すでに1811年には『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』が完成しており、日本人による英文法書としては、渋川敬直訳述・藤井質(三郎)訂補の『英文鑑』(1840~41)がある。

川本幸民が『気海観瀾広義』(15巻)を著したのは、正しくは1851年である。

それでも、小学校教員になる師範学校の生徒たちに英語教育史を講じていた見識には脱帽する。

(つづく)