希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

英語科における協同学習の原理と実践(2)いまなぜ協同学習か

いま、なぜ協同学習が必要なのだろうか。

まず、時代の変化が背景にある。
1960年代の高度成長期のような画一的な大量生産を特徴とする「産業社会」から、時代は「高度知識社会」へと変化した。

高度の総合的な知識、多様な人々とのコミュニケーション能力、創造的な思考、問題の発見と解決能力の必要性が高まっているのである。

その変化を踏まえるならば、いま日本の英語教育に必要なことは、生涯にわたり主体的かつ協同的に学び続ける「自律学習者」を育成することである。

そのために、旧来の画一的な一斉授業のスタイルを打破し、協同的で自律的な学びのスタイルを取り入れる必要がある。

その「自律」的な学びにとって、もっとも障害となるのが強制的な「勉強」と「競争」であり、その結果としての「格差」である。
試験による強制は、一時的には「学力」が向上するように見えるが、反動として学びを嫌悪し、生涯にわたる持続的な学びの意欲を阻害する。

日本を含む東アジア諸国(中国、韓国、台湾など)では、科挙以来の伝統によって、試験=受験の合格を目標に、試練としての「勉強」を、人生の成功=立身出世の手段として行ってきた。
さらに、儒教的伝統による教師の権威によって、教師主導の一斉型の「講義」体制への服従を可能にさせてきた。
生徒にとって、それは苦役であり修行であったが、経済が右肩上がりの時代には、その見返り(高学歴による出世)が期待できた。だから我慢した。(中国、韓国などではまだ可能かもしれないが。)

しかし、1970年代後半には、その幻想が崩れたのである。
佐藤学は『学びの快楽:ダイアローグへ』(1999、25頁)で次のように分析している。

「勉強による社会移動のメリットとその幻想は、高校と大学への進学率がほぼ頂点に達した二○年前〔1970年代後半〕に、一部の優秀な子どもを除けば消滅している。それどころか、多くの子どもにとって学校は、親よりも低い教育歴と社会的地位へと転落する挫折の場所となっている。勉強の時代の終焉である。学びが競争において意識される限り、勉強の拒絶と勉強からの逃走は当然の現象なのである。」

だから、強制(勉強や試験)では、もう大半の子どもは動かない。
一斉型の権威主義的な講義はもう通用しない。

18歳人口の減少による「大学全入」時代が、その傾向に拍車を掛けている。

競争的な環境でではなく、「平等と協同」の環境、つまり仲間と安心して失敗できトライできる教室空間で、自律的な「学び」の面白さ(快楽)を実感できない限り、子どもたちは勉強から逃走し続けるのである。

北欧を中心に、世界の教育改革はその方向に舵取りしている。
強制や格差ではなく、平等と協同へと進路を切り替えている。
Less is more.(少ない量で豊かに学ぶ)
フィンランドをはじめとする教育先進諸国では、教育は「量」の時代から「質」の時代へと突入している。(佐藤学和歌山大学教育学部附属小学校『質の高い学びを創る授業改革への挑戦:新学習指導要領を超えて』2009、13頁)

それが、PISAでの成果につながっている。

しかし日本では、それへの切り替えが頓挫し、2008・09年の学習指導要領は授業時間数を増やし、勉強「量」の追求へと逆行している。
しかも、教員も予算も増やさず、40人学級制を放置したままだから、破綻は時間の問題である。
若者の高い失業率と半失業状態が閉塞感を生み、自暴自棄を再生産している。

だから、時間の問題どころか、新指導要領の完全実施以前に、すでに子どもたちの問題行動(暴力を伴う)の増加によって、こうした政策の破綻は明らかになっている。

だから、いま、平等と協同の新しい「学び」のスタイルへの転換が必要なのである。
そこに希望がある。

(つづく)