希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

研究社英語通信講座のルーツ

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日本の英語教育とともに1世紀にわたって歩んできた研究社。
その研究社(1907:明治40年の創業当時は「英語研究社」)のルーツの一つは、英語通信講座だった。

その淵源は、1900(明治33)年までさかのぼる。
当時、東京市青山南町の青山学院内にあった学窓余談社(のちに東京通信学院)が同年4月に「通信講学 英語科講義録」(図上)を発行し、通信教育を始めた。
院長は英学者として知られ、『社会平等論』(1884)の出版などで自由民権運動を鼓舞した松島剛(1854~1930)。
講師には東京外語の浅田栄次をはじめ、そうそうたる人物が名を連ねていた(図中央)。

ところが、諸般の事情で続けることが困難になっていく。

それを聞きつけた小酒井五一郎は(彼はのちに英語研究社を創設する)、東京通信学院の事業を引き継いで、1906(明治39)年4月に大日本国民英語学会を創設した。なんとも壮大な名称!

こうして、東京通信学院の講義録は引き継がれ、『新式独習 英語講義録』(English Students:図下)となって小酒井のもとで通信教育が始まる。
ブレーンには「英語青年」を発行していた喜安?黙太郎(英語青年社)や山崎貞がいた。山崎はヤマテイの参考書で有名。昨年研究社から復刻され、大ヒット中!(復刻を勧めたのは僕だけど(^_^;)

この講義録は、初等・中等・高等の各コース3カ月修了で、1911(明治44)年9月の全面改稿までの11回(33カ月=2年9カ月)の間に「卒業生を出すこと三万有余人、これに中途退学者を加へると実に十万幾千人」(編輯局より)と大当たりした。

当時、英語を学べる中等教育の門戸は、主に富裕な成績優秀者にしか開かれていなかった。
講義録の郵送による通信教育は、英語教育の門戸を各地の広範な社会階層に開放し、英語教育の機会均等化に貢献したのである。

事業の根底には、生活のため小学校を出るとすぐに働きに出ざるをえなかった小酒井自身の社会的な使命感があったのかもしれない。

いずれにせよ、こうして1907(明治40)年の英語研究社創設の大きな資金源になった。

この通信講座は1924(大正13)年に「研究社英語通信講座」へと発展していく。

(続きはまた)