希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

もしも教科書検定制度がなくなったら

大学入試センター試験の「追試」とともに、2010年の1月も終わろうとしている。
今日の追試では、受験者5名に対して、学長と全学部長以下30人を超すスタッフで対応した。
駐車場管理の担当者は、寒風の中、ずっと立ち通しだった。お疲れさま!

さて、1月も終わるにあたって、本年の「初夢」を載せておきたい。
以下は大修館書店の『英語教育』2010年1月号の特集「英語教育のもしも」に寄稿したもの。

もしも教科書検定制度がなくなったら



 「アスファルトから人へ!」のマニフェストを掲げて総選挙で圧勝した○○党政権は、201×年、教科書検定制度を廃止した。学習指導要領も簡略化され、約半世紀ぶりに法的拘束力のない「試案」に戻された。教科書の選定も学校現場に任せ、広域採択制度は廃止するという。

 野党の一部から猛烈な批判が起こった。
 「検定制度を廃止したら、教職員組合の息のかかった偏向教科書が作られてしまう!」
 「国粋主義的な右翼教科書こそ心配だ!」

 だが、新大臣の鼻息は荒かった。「マニフェストに載っている以上、検定廃止は断行します。学力世界一と言われるフィンランドをはじめ、アメリカ、イギリス、フランス、オーストラリアなどには検定制度はありません。国家が画一的な教育内容を押し付ける時代は終わったのです。」

 官僚主導からの脱却

教科書検定制度は、中央集権的な国家体制を固める明治政府が1886年に導入した。1903年からは小学校で国定制となり、天皇制国家に忠実な臣民が育成された。マインドコントロールの果てに何が起こったかは、歴史が証明している。

 だから、民主教育への転換を求めた米国教育使節団報告(1946)は国定や検定を批判し、自由発行と教師による自由採択を勧告した。

 しかし、1956年に文部省は教科書調査官を新設して検定制度を強化し、翌年の検定で社会科用の3分の1を不合格にした。1958年からは学習指導要領に法的拘束力を持たせ、たとえば中1で“Nice to meet you!”を教えようとすれば検定不合格となった。国家が定めた「不定詞は中2」という文法・文型の学年指定に違反するからだ。

 1990年代にはコミュニケーション重視に転換。学年指定が解除され、中1用で“Nice to meet you!”が大流行した。ところが、会話中心は日本のようなEFL環境になじまない。時間数の削減も加わって、英語力が著しく低下した。

 今度は「ゆとり教育」から「学力重視」に転換。迷走する改革につき合わされた教員は疲労困憊し、精神疾患と休職・退職者が急増した。

 そして運命の201×年、指導要領と検定制度を揺るがす大事件が起きた。「授業は英語で行う」と定めた高校指導要領に準拠した検定教科書を、大半の教員がボイコットしたのである。

 最初は英語だけの授業を試みた。すると、英語が苦手な生徒たちが反発し、問題行動が頻発した。進学希望者らは、指導要領で撤廃された「リーディング」や「ライティング」の補強にと参考書で内職していた。だが、ついに言った。「先生、もういいよ。無理に英語で授業するの、やめようよ」

 こうして、教師らは非検定教材の使用に踏み切った。1983年に英文法の検定教科書が廃止されても、市販の文法書で非合法に「オーラルG」を続けてきたが、そのノウハウを生かし、ついに検定教科書をまったく使わずに授業を進めたのだ。

 すると競争原理が働いて、創意工夫に満ちた教材が次々に発売された。生徒の学力もメキメキ向上。検定制度不要論が着実に広がっていった。

 教科書会社は真っ青になった、と思いきや、笑いが止まらなかった。使わない検定教科書に加え、非検定の教材も飛ぶように売れたからである。

 怒ったのは親たち。「なんで使わない教科書代まで払わされるの!」。校長室での押し問答の末、ようやく悟った。指導要領と検定制度がいかに教師と生徒を苦しめてきたかを。官僚主導による教育政策の行き詰まりを、誰もが肌で感じた。

 こうして、運命の総選挙を迎えたのである。

 変わる教科書

 検定制度はウザい上司のようだったが、指示に従っていれば楽な面もあった。だが、今度は自分たちに全責任がかかる。教科書の編集会議は熱気につつまれていた。

 生け簀(す)から太平洋に放たれた魚のように、とまどいもあった。だが、自由な大海原の魅力は想像以上だった。教科書執筆者たちは知の冒険者となり、未踏の領域へと分け入った。海外の教科書を取り寄せ、日本との落差に愕然としながらも、魅力的な教材や指導法を集めていった。

 検定教科書を無視してきた私立の進学校からも教科書や教材を入手した。その高度な内容を目にしたとき、検定制度の空洞ぶりを実感した。

 教材開発のために、教師、生徒、保護者のニーズが徹底的に調査された。この方式は、1947年の最初の学習指導要領(試案)と同じだ。戦後民主教育の出発点では、国民の声を教科書作りに反映させていたのだった。

 集められた意見を分析し、それぞれのニーズに合った多様な教科書が作られた。専門家などからなるNPOがそれらを自主的にチェックし、結果をネット上で公開した。これらも参考に、教師は展示会で最もふさわしい教科書を選んだ。

 変わる授業

 教科書は「主たる教材」から「教材のひとつ」になった。教育を最優先課題とする新政権は、外国語クラスの上限を20人以下とし、すべての教室に電子黒板やパソコンなどのICT機器を設置した。教材の一部は生徒のケータイにも配信され、自宅にいる不登校生徒の意見までリアルタイムで電子黒板に映し出される。

 英語専用教室にはグループ用のテーブルが置かれ、学び合い・高め合いの協同学習が基本スタイルとなった。授業中に疑問がわくと、すぐにパソコンで検索するか、書棚の本をめくって調べた。文学の原書にチャレンジする生徒もいれば、発音練習にはげむグループもあった。

 教師はテーブルをまわって、生徒の自律的な学習を援助する支援者となった。

 変わる学校

 検定制度の廃止が突破口となり、教育制度を硬直化させていた旧時代の遺物が連鎖反応のように崩壊していった。

 最大の成果は、上からの指示待ち体質が改善されたことだ。行政は教育条件の整備に主力を注ぎ、学校の裁量権を大きく拡大した。校長も教師も自分の頭で考え、実情に合った教育方針を自分たちで立案するようになった。帰宅も早まった。

 年に数回の拡大職員会議には生徒、保護者、地域の代表も出席し、教員と一緒に運営方針を協議するようになった。職員会議での挙手採決を禁じる自治体があったことなどウソのようだ。

 「子どもの権利条約」の履行状況を監督するNGOが定期的に学校を訪れ、靴下の色まで定めていた理不尽な校則が次々に見直されていった。生徒たちは「自分が学校の主人公」であることを実感し、教室が心地よい居場所となった。進んで意見を言うようになり、問題行動や不登校が激減した。ようやく「積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度」を育む土壌が生まれ、授業が生き生きしてきた。

 恋人に会いに行くような気持ちで、今日も教室に出かける。教師になって本当によかった。

* * *

 と、ここで目が覚めた。「なんだ、夢か・・・」
 でも、いい初夢だった。

 忌野清志郎の「イマジン」が聴きたくなった。

 ♪夢かもしれない  でもその夢を見てるのは
 ♪君ひとりじゃない 仲間がいるのさ