希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

欧文社通信添削会の歴史(1)

旺文社には大学受験のころ、ずいぶんとお世話になった。

赤尾の「豆単」や梶木隆一先生の『基礎からの英語』のことは、このブログでも書いた。

参考書の「よくわかる」シリーズは、英語以外の教科でもお世話になり、おかげで「よくわる」ようになった。

旺文社の模擬試験や英協の通信添削にもお世話になった。
特に、周囲に予備校のなかった地方の受験生にとって、通信添削は実にありがたかった。

そこで、欧文社(1942年までの社名はこうだった)の通信添削の歴史をやや詳しく紹介したい。

なお、本稿は日本英学史学会東日本支部の研究紀要『東日本英学史研究』第9号(2010年3月刊)に寄稿した「欧文社通信添削の地方受験生への貢献」に加筆したものである。

1. はじめに

 「地方の英学」を論じるためには、秋田、和歌山といった特定地域における英学史研究とともに、旧植民地をも含む広範な「地方」の若者たちの学習や受験指導に貢献した通信教育の役割をも考察すべきであろう。
そうした関心から、小論では欧文社通信添削会の実態と歴史的な役割を考察したい。

 管見では、英語通信教育の歴史は1885(明治18)年11月17日から刊行された東京学館の『英学自習書(Text-book for Home Study)』に始まる。
初期の通信教育は乏しい中等教育機会を代替・補完する機能をもっていた。

しかし、中等教育機関が充実するにつれて、中等学校在校生・卒業生への補習および受験指導の機能を強めるようになった。
その典型が欧文社通信添削会である。

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2. 欧文社通信添削会の急成長

 欧文社通信添削会は、東京外国語学校を卒業したばかりの赤尾好夫によって1931(昭和6)年に設立された。最初の会員は17人だったという。

しかし、高校・高専進学のための懇切丁寧な指導が受験生の心をとらえ、また日中戦争が始まった1937(昭和12)年ごろから受験人口が急増した背景もあって急成長をとげる(表1)。

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 『欧文社通信添削会内容紹介』(1942)によれば、同会は英語・数学・国漢作文・国史物理(公民・口試を含む)の4指導講座を開設し、
(1)難易度、傾向、出典等の調査をふまえた出題
(2)都会地の高等専門学校の採点方針を採用
(3)「優、良、可、稍可、不可」による成績評価、志望校別の合格率、席次の明示
(4)成績優秀者数千名の「添削会だより」への発表
などの特長を持っていた。

 英語科の出題指導者には、吉岡源一郎(東京外国語学校教授)、中野三郎(第一外国語学校教授)、古瀬良則東京商科大学予科教授)、須藤兼吉(東京高等商船学校教授)、トーマス・ライエル(東京高等商船・早大講師)、杉浦敏勝(東京帝国大学講師)らが名前を連ねていた。
 ただし、実際の添削指導には社員・補助員が従事していたと思われる。

 私の手許には、1935(昭和10)年の添削答案の実物が20枚ほどあるが、いずれも赤ペンで懇切丁寧な添削がほどこされ、受講者の質問への回答や講評・指導序言が丹念に書き込まれている。

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 欧文社は、原仙作『英文標準問題精講』(1933)、「赤尾の豆単」として親しまれたた赤尾好夫『英語基本単語集』(1935)などの大ベストセラーを重ね、1938(昭和13)年には新宿区横寺町に新社屋を建設して本格的な出版活動を展開する。

 通信添削会の会員誌だった『受験旬報』は、1941(昭和16)年に受験総合雑誌蛍雪時代へと発展した。

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 1943(昭和18)年の時点で、『蛍雪時代』の発行部数は9万1000部で、英語通信社の『進学指導』の3万6000部、研究社『学生』(旧『受験と学生』)の3万部を大きく引き離す(菅原亮芳(2008)『受験・進学・学校:近代日本教育雑誌にみる情報の研究』学文社、p.81)。
旺文社は名実ともに受験出版界の王者として君臨した。

 太平洋戦争下の1942(昭和17)年8月には、英米を暗示する「欧」がまずいと判断したのか、社名の欧文社を旺文社に変更した。

 その後、赤尾は若者に戦意高揚意識を煽るようになる。

 (つづく)