希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

伊藤和夫『新英文解釈体系』(1964)を読む(2)

新著『受験英語と日本人』(研究社)の脱稿、入試、毎日新聞誤報問題などにかかわり、連載がすっかり間延びしてしまった。

しかし、本日1月21日は伊藤和夫の命日

何があっても、彼の初の単著『新英文解釈体系』について書かないわけにはいかない。

まずは、若き伊藤が勤務していた横浜の山手英学院(1954年頃)の写真をお見せしよう。
単なる予備校ではなく、英文・和文タイプやフランス語、スペイン語、ドイツ語なども教えていた各種学校(YAMATE BUSINESS COLLEGE)であったことがわかる。

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この写真は、同校で事務職員をしておられたSさん拝借したもの。
山手英学院での伊藤和夫の授業風景を移した写真も拝借したのだが、こちらは現在校正中の拙著をご覧頂きたい(ごめんなさい)。

同校は敗戦直後の1947(昭和22)年5月に、横浜山手町の元街小学校の放課後の教室を借りて山手英語会として発足。
翌年には山手英学院と改称、各種学校として認可された。
1949年には横浜市日ノ出町に専用校舎を建て、その翌年に学校法人山手英学院となった。初代理事長には有隣堂の松信大助社長が就任。
つまり、山手英学院と書店の有隣堂とは兄弟法人だったのである。

伊藤の『新英文解釈体系』が1964年に有隣堂から出版されたのは、そうした経緯からである。
なお、1953(昭和28)年には松信大助理事長が逝去し、息子で東大卒の松信幹男が理事長に就任した。

『新英文解釈体系』の「序文」で、伊藤は「本書の出版に際し、山手英学院理事長松信幹男氏に種々御配慮いただいたことを記して、深く謝意を表したい」と書いている(下の図版参照)。

山手英学院で伊藤とともに英語を教えていた高林茂氏(横浜市在住)によれば、伊藤は東大在学中から山手英学院で英語を教えていた。東大文学部西洋哲学科を1953(昭和28)年に卒業すると、そのまま同学院に就職してしまった。当時の東大生としては異例である。

理事長の松信幹男が東大だったためか、当時の山手英学院の講師は東大生がほとんどで、沢崎九二三の長男の沢崎順之助や小池滋(ともに後に東京都立大教授)なども教えていた。
このころの山手英学院は横浜随一の予備校・各種学校で、大いに繁盛していた。そのため、破格の待遇だったという。家計を支える必要のあった伊藤には魅力的な就職先だったのかもしれない。

さて、前置きが長くなったので、そろそろ『新英文解釈体系』の内容へと進もう。

本書の性格を知る上で「序文」はきわめて大切なので、全文を掲載する。

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後の『英文解釈教室』(1977)と共通する思想が見て取れると思う。

たとえば、最初のページの下の方にある小野圭次郎や山崎貞の英文解釈書を次のように批判している。

「小野圭、山崎〔貞〕の昔から受験参考書において構文としてとりあげられている事項を整理してみて気づくのは、特殊な熟語表現(no more… than…〔鯨が魚でないのは馬が魚でないのと同じだ〕, etc.)に対する異常なまでの執着である」と総括している。その上で、「学生に英文が読めない理由が、これらの特殊表現に対する知識の欠如にある場合は実はきわめてすくない。」

序文の最後の方では、旧来の参考書が19世紀の文学と人生論に関係する例文が不当に多く、20世紀の英米人による「社会・思想・政治・科学等多方面にわたっている」戦後の出題傾向に合致していないことを鋭く指摘している。

こうして、伊藤は明治期の「難文・難句集」に起源を持つ伝統的な英文解釈法との決別を宣言し、対案として5つの基本方針を打ち立てるのである。

1)統一的な視点の確立
2)言語の線条性の重視
3)形から意味へ
4)型の重視と記号の使用
5)例文及び練習問題

晩年までこだわり続ける「直読直解」の追求など、革命的な方法論を提示した部分なので、ぜひ熟読いただきたい。

まるで学術書のような方法論の提示ぶりで、本書の大きな魅力となっている。

「使用上の注意」も伊藤らしく、その後の本にも踏襲されている。

以上見ただけでも、この『新英文解釈体系』が伊藤英語学大系の骨格を形成した著作であることは明らかであろう。

伊藤和夫自身が認めているように、「教師としては、よかれあしかれ、この本を書くことによってできあがった」(『予備校の英語』175頁)のである。

(つづく)