「西周の訳語を用いずに、**を**し、**し、**を**して、**的な**を**することはできない。すなわち一般に**的な**は不可能である。」
戦前の左翼本の伏せ字ではない。
明治初期に、西周(にし・あまね 1819~1897)が西洋の学術用語を翻訳しなかったら、こうなってしまうというサンプルである(加藤周一「明治初期の翻訳:何故・何を・如何に訳したか」『近代日本思想大系15 翻訳の思想』岩波書店、1991)。
さて、西周の訳語を入れるとこうなる。
「西周の訳語を用いずに、現象を観察し、抽象し、概念を定義して、理性的な命題を合成することはできない。すなわち一般に哲学的な思考は不可能である。」
これほどまでに、外国語の翻訳は日本語を豊かにしたのである。
もちろん、こうした訳語は漢学の素養を介してだ。
逆に、日本人が訳した「共産主義」(= communism)という言葉が中国に輸出されたようだから、西洋語ー日本語ー中国語の連環が生まれることで、世界観が広がっていった。
逆に、日本人が訳した「共産主義」(= communism)という言葉が中国に輸出されたようだから、西洋語ー日本語ー中国語の連環が生まれることで、世界観が広がっていった。
明治初期ほどではないかもしれないが、海外との活発な交流が続く今日、外国語を新たに翻訳することで、日本語はますます豊かになっていくだろう。
まさに日本における外国語学習の目的の一つは、日本語を豊かにすること、その豊かな日本語で豊かに思考できる人間を育てることである。
「授業は英語で行う」という新指導要領の方針は、その貴重な機会を損なってしまう。
まさに「愚民化政策」だ。
まさに「愚民化政策」だ。
この点に関して、外山滋比古は「変則的」というエッセーで次のように述べている(外山滋比古『新・学問のすすめ』講談社学術文庫、1984、78頁)。
*なお、「変則的」とは、明治前期の音声を重視しない英語学習法のことである。
*なお、「変則的」とは、明治前期の音声を重視しない英語学習法のことである。
「翻訳はただ語学的な技術によってのみ行われるものではない。原語の精神の中核をえぐり取る能力がなければ、とても簡潔な訳語を得ることはできない。もっぱら英語の精神的内容を凝視していたからこそ、おのずから名訳が生まれたのである。(中略)飛行機、自動車、汽車、汽船、鉄道、乗り物関係だけでも、これらはみな変則英語がこしらえた訳である。〔音声を重視する〕正則英語ではそういう訳語づくりに情熱を注ぐということをしないから、外来語は漢字でなく、カタカナで表記される。」
音声指導は大切だ。だが、「変則英語」が主力を置いた「英文和訳」の文化史的意義を忘れてはならない。
政治的意義だってある。
もっと悪知恵の働く役人や政治家たちは、わざと誤訳する。
正確に日本語に訳せる人間を育てることは、主権者たる国民(おっと、これも不正確で、日本国憲法の英語原本ではpeople つまり国籍を強調しない「人民」)を育てる上で大切なことなのだ。