希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

ゼミで『英語教育大論争』(1975)を読む(2)

11月5日のゼミでは、戦後屈指の英語教育論争を扱った平泉渉渡部昇一の『英語教育大論争』文藝春秋社発行、1975;文庫版1995)の後半を取り上げました。

 

学校における英語科教育の目的とはそもそも何なのか、といった本質的な問題に議論が進みました。

 

それにしても、1974年に自民党参議院議員平泉渉氏が提起した、学校の英語教育は全員には中1程度にとどめ、希望者には集中特訓を課して結果的に「国民の5%」の英語熟達者が育てばよいという主張は、その後も形を変えて実行に移されているように思われます。

 

1990年代から本格実施されてきた「コミュニケーション重視」とは、要するに「使える英語」をめざすものです。(実際には「使える」どころか、英語学力をガタガタにしてしまいましたが。)

 

しかし、スキルの習得だけを目的にするのならば、仕事で英語を必要としない9割以上は切り捨ての対象となります。
スキル主義は、必然的にエリート主義を招くのです。

 

文科省の「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」(2003~07)も、これを受け継いだ「国際共通語としての英語力向上のための5つの提言と具体的施策」(2011)も、英語エリートの育成に特化しており、苦手な生徒への指導方針は一言も書いていません。

 

したがって、大半の学校現場の実情には合わず、指針にはなりません。

 

英語が使えるグローバル人材を育成したいという財界の気持ちもわかります。

 

しかし、学校で「使える英語」を請求に求めることが、どれほどの歪みをもたらすかも真剣に考える時期に来ているのではないでしょうか。

 

公教育には、勉強ができる子も、できない子も一緒に混ざって、互いに多を認め合うことが重要です。
その上で、全員の学力と人間関係力を伸ばすことが必要なのです。

 

「いじめ」の撲滅には、そうした協同的な関係づくりことが重要なのではないでしょうか。

 

以上の意味で、1970年代の「英語教育大論争」は、すぐれて今日的な意味を持っているのです。

 

学生たちの議論の一端は、東君の報告をご覧ください。↓

 

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