希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

英文解釈から見える英語教育の「退化」:お返事を兼ねて

修士論文指導と卒業論文指導と入試委員長の仕事でバタバタしているうちに、たくさんのお便りをありがとうございました。お返事を兼ねて、少し書かせてください。

tok*se1さん、ポッピーママさん、やまぐちさん、奈良さん、お便りありがとうございました。

「英文解釈」が明治から日本人の英語学習の中心になってきたことには理由があるはずです。
まだ調査は中間段階ですが、主に3つ理由があると思っています。

1.日本語と英語との言語的な距離(文法・文構造など)があまりに離れているから。
2.日常生活では英語を使わないから。
3.高等教育を受けるには高度な英文読解力が必要だったから。

このうち、現在でも1と2はまったく変わっていません。
特に1は、古代から交流のあった中国の言葉ですら返り点を付けて日本語風に読む伝統が1000年以上続いてきました。英語学習もそうした伝統の上に成立しました。

大学の大衆化によって、3はぐらついていますが、一定レベル以上の勉強・研究をするには高度な英語読解力が必要です。

いずれにしても、英字新聞程度の英語が読解できる力をつけなければ、語るに足る内容をもった「会話」などできないでしょう。

それに、日常会話は実はとても難しくて、例外規則のかたまりです。ですから、使い続けていないと身につきません。
寺島隆吉先生の名著『英語教育が亡びるとき』を読み直していたら、277ページに伊東治巳先生の論文からの引用があり、なるほどと思いました。伊東先生は以下のように書かれています。

TOEFLの「受験生の大半はその種の生活英語に直接的に接したことのない学習者で、表面的には日常的でコミュニカティブに見える問題が実は非日常的な存在であるということが(中略)日本の英語教育界において必ずしも共有されていない。今後、受験者にとっての、さらには日本の英語教育界にとっての『日常』を再吟味する必要性を痛感する。」
(伊東治巳ほか「大学進学予定者を対象とした英語能力試験の国際比較」『四国英語教育学会紀要』第27号、11-26ページ)

さすがは伊東先生、とても鋭い指摘だと思います。
(ついでに、僕の研究室は和歌山大学時代に伊東先生が使っておられた教育学部「人文407」です。はい。)

ですから、そうした日常会話主義に転じた1980年代頃から日本人の英語力は「退化」し続けているのです。
これは外国語としての英語(EFL)と第二言語としての英語(ESL)とを混同した政策的な誤りに起因します。

僕が塾で教えていた1980年代に、中学の教科書では"I am"より先に"I'm"を教えるようになりました。"I'm"の方が日常会話ではよく使うからというのが理由だそうです。
しかし、日本人向けのEFLの学習法としては、まったくナンセンスです。"I'm"は"I am"の省略形として教えた方がずっと理解しやすいからです。
接触節よりも前に関係代名詞を教え、「接触節は関係代名詞の省略」として教えた方が生徒は理解しやすいのです。

そうした学習法はすべて、明治時代から日本の先人たちが苦心して体系化してきたものです。
東大院生の斎藤浩一さんによれば、「無生物主語」などという英米の文法書にはない概念が開発されたのも明治の日本です。

こうした日本におけるEFL学習史の重みも知らないで英語教育政策を立てるのは、もうやめにしませんか。

文科省の後ろにいる財界の後ろにいるアメリカは、「英語が使える日本人」を作ると称して「英語が使えない日本人」を作るだけでなく、日本語力鍛錬の最高の機会である英文解釈を廃して「日本語も使えない日本人」を作り、メディア・コントロールへの免疫力を奪って批判的にものを考えない日本人を作り、精神の植民地化を進めようとしているのでしょうか。

現に、沖縄の基地問題を見る限り、日本人の精神の植民地化は相当進んでいます。
良心的な英語教師ですら、オバマ大統領のスピーチを授業で無批判に使い、結果的に、アフガニスタン侵略の強化を決定した彼の政策に目をつぶっています。
(僕は4月からの授業でマイケル・ムーアの映画を使います。おススメですよ!)

英語教育の「退化」と、精神の植民地化に抗して、英語教師は闘いましょう。

なお、ポッピーママさん、小学校高学年なら日本語と英語の文法の違い(語順などの文の仕組みの違い)などを教えたら、きっと言葉に敏感になり、だまされない国民になるのではないでしょうか。
小学校外国語活動では、英語を「ダシ」にして、日本語、さらには「ことば」への洞察を深めさせたら成功だと思います。国語(正しくは日本語)教育の延長だと考えてはいかがでしょうか。

ぜひ立派な日本国の主権者を作りましょう。(大津由紀雄さん風のあいまい表現です)(^_^;)