希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

明治期の英語入試問題(現物)

明治37年高等学校大学予科入学者選抜者試験問題

英文解釈の参考書の歴史をたどっているが、こうした参考書を研究する際の前提条件がある。
入試問題の変遷史である。

すでに見てきたように、日本では「英文解釈」の参考書が発達し、その技術が研ぎ澄まされてきた。
その背景には、明治期から入試での「英文解釈」の得点が合否を大きく左右したという事実がある。

配点は時代によっても学校種によっても異なるが、おおむね英語の総得点の3分の2は「英文解釈」に配当されていたといわれる。

ということで、本物の入試問題を見てみよう。
十数年前に古書店から入手したものだが、現物はきわめてレア物ですぞ。

なお、戦前は中等学校から高等学校ないし大学予科に入るのに厳しい入試が待ちかまえており、高校(または大学予科)に入ってしまえば、その上の帝国大学にはほぼフリーパスで入れた。
旧制高校帝国大学の「教養部」だったのである。

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1902(明治35)年から1907(明治40)年までは、全国の官立高校・大学予科が同じ問題で一斉に試験する総合共通選抜制度が導入されていた。

この問題が出された1904(明治37)年といえば、日露戦争が始まった年だ。「坂の上の雲」の世界である。

この年の高校は全国でたった7校。志願者4,076人のうち、合格できたのは1,480人で、競争率は2.75倍。
一番人気の第一高等学校(東大教養学部の前身)は競争率6.03倍とダントツで、第七高等学校(鹿児島)になると0.99倍と定員割れだった。

なお、この問題の出典はなんだろう。
と思って、(1)の英文をインターネット上のコーパスで検索してみた。
すると、該当する原典は以下の通り。

But it is hard to know them from friends, they are so obsequious and full of protestations; for a wolf resembles a dog, so doth a flatterer a friend.

著者はSir Walter Raleighで、Instructions to his Son and to Posterity (published 1632) の
Chapter III.だ。
この17世紀の英文をアレンジして出題したことがわかる。
僕はいま大学院生と、こうした「科学的」な分析をせっせと続けている。

次いで英作文。当時は「国文英訳」と呼ばれていた。
英文解釈と合わせて、試験時間は3時間ほど。じっくりと、全ての知力を出して答案を仕上げたことだろう。

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鉛筆で答案の書き込みがあるが、それを見る限り・・・「微妙」だ。
この人はうまく受かったかな?
第一高等学校で受験したようだが、第一志望が無理な場合、他の高校にまわされる場合も多かった。

「受験者心得」や「答案の作り方心得」も資料的な価値があると思うので、載せておこう。

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なお旧制高校のコース分けは次の通り。
第一部は文系で、甲は第一外国語が英語、乙がドイツ語、丙はフランス語
第二部は理系で、甲は工科、乙は理科・農科・薬科、丙は医科
この受験生は「第二部甲類」なので、工学系の志願者だ。

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当時の入試は7月、高校や大学の入学は9月だったから、中学を3月に卒業してから、約3カ月を受験勉強に集中できた。

現在では受験は冬の風物詩となっている。
今年は新型インフルエンザに振り回されているが、どうか身体を大切にして、力を発揮してほしい。
冬来たりなば春遠からじ。

頑張っている君に、心から応援のエールを送りたい。