希望の英語教育へ(江利川研究室ブログ)2

歴史をふまえ、英語教育の現在と未来を考えるブログです。

懐かしの英語参考書(3)東大生が作った『大学への英文解釈』

小田島雄志といえば、坪内逍遥に続いてシェイクスピアの全戯曲を翻訳した英文学者としてあまりに有名である。 →Wikipedia「小田島雄志」

でも、その小田島らが東大の学生時代にすごい英語参考書を作っていたことは、ほとんど知られていない。

その参考書とは、東大学生文化指導会編『大学への英文解釈』(研文社、1953年8月25日発行)である。
編集委員の4人の中に、小田島の名前が書かれている。
彼は1930年12月生まれだから、この本が出た頃は22歳の英文科学生だった。

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東大学生文化指導会は「東大サンデースクール」で高校生らに英語などの勉強法を指導していた。
その過程で、「現在の高校生の実情に即し、しかも現在の大学入試問題に即した良い参考書がないものか」という高校生らの切実な声に接し、それならば自分たちで作ってしまえと、この466ページにおよぶ参考書を刊行したのである。
大学のサークルが受験参考書を作ったわけだ。
ベンチャー企業の走りかもしれない。(^_^;)

監修者として東大英文科教授の朱牟田夏雄の名前が載せられているものの、「全体の構想も材料あつめも執筆も一切学生諸君の手でなされたのである」(朱牟田)。すごい!

つい数年前まで自分自身が受験生であり、またサークル活動で現役の高校生を指導してきたから、実によくできている。英文解釈の基礎から始め、徐々に応用へと進んでいる。
戦後の新制大学の入試問題の新傾向である長文化にも対応している。(といっても当時の「長文」は100~120語程度。それでも戦前の40~50語から見れば「長文化」だった。)

最大の特長は、「B2. どこを間違えるか(答案例と講評)」。
これは、サンデースクールで彼らが指導していた高校3年生の答案をもとに、どうすれば完璧な答案になるかを添削指導したもの。面倒見の良い兄貴のような目線だ。

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こんな活動を通じて、偉大な英文学者・小田島雄志が誕生した。
シェイクスピアの全戯曲を翻訳するという偉業の基礎には、「英文解釈」の修業があったのである。

この『大学への英文解釈』は英文解釈の参考書史上、見過ごすことのできない意義がある。
その点については、伊藤和夫が『予備校の英語』(研究社、1997)で次のように述べている。

「文法に依拠しようとしているという点で、発展の可能性を秘めていたのは、山貞より小野圭のほうであった。戦後の参考書の多くは、この考え方を学校文法の体系にもっと接近させ、もっと精密にして、たとえば『大学への英文解釈』(松山恒見ほか、研文書院、1953年)に見られる(中略:目次構成を記述)のような形をとるようになった。」(40-41頁)

「英文解釈の参考書は、動詞と文型に関する記述がその中心を占めることになる。先に示した『大学への英文解釈』の構成は、このこと、つまり、参考書が遠くラテン語文法を祖型とし、近くはOnionsやNesfieldに由来する学校文法の体系とは異なるシステムを持つことになってゆく過程を示すものである。」(42頁)

この「学校文法の体系とは異なるシステム」という言葉は意味深である。
これこそ、伊藤が『新英文解釈体系』(1964)や『英文解釈教室』(1977)で開拓した領域だからである。

英文解釈法は、こうした先人たちの苦闘によって、日本で独自の進化発展を遂げてきたのである。

ここまで書いて、外山滋比古の名論文「英文解釈法」(『現代の英語教育・5 読む英語』研究社、1979所収)を読み直してみた。彼はこう書いている。

「私は、かねがね、英文解釈法こそ、日本の英学の歴史が生んだもっとも独創的な業績の一つだと考えてきたから、現状のような冷遇が不思議でならない。」

「いつの間に、英語が日本人の心理にすらすらとけこむものと考えられるようになったのであろう。日本人にとって外国語は本当に、抵抗なしに理解できるものなのか。」

「彼我の言語〔英語と日本語〕のどこがどのように違うかに注意し、それを、何とか体系化しようとした。そのあとが英文解釈法だったのである。」

「日本の大学が講義をすべて日本語ですることができるのは、実にすばらしい近代化の成果なのである。それを可能にした英文解釈法の貢献は偉大であると言わなくてはならない。」

後半で外山は、英文解釈法の限界(パラグラフ理解やスタイル〔文体〕への無頓着)も指摘している。
ぜひ全文をお読みいただきたい。

今年告示された高校新学習指導要領は「授業は英語で行うことを基本とする」とした。
→これに対する私の批判(『英語教育のポリティクス』から抜粋

12月25日に発表された同「解説」によれば、「読む活動においては,生徒が,生徒の理解の程度に応じた英語で書かれた文章を多く読み,訳読によらず,概要や要点をとらえるような言語活動をできるだけ多く取り入れていくことが重要である」とある。
http://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/youryou/1282000.htm

「訳読によらず」、したがって精読もできず、多く読めば(わからない文章を多読できるか!)、「概要や要点をとらえる」(ぼわーとわかった気になる?)のだという。

これを書いた人間は、高校の教壇に立ったことがあるのだろうか。
立ったことがあったとしても、生徒たちの悩みを共有したことがあるのだろうか。
明治から続き、小田島も格闘してきた「英文解釈」の成立過程と意義を真剣に考えたたことがあるのだろうか。
高校生たちの顔を思い浮かべながら、この文章を書いたのだろうか。